家の前に着いてとばりと別れると、ゆうなは再び溜め息を吐いた。

あれほど とばりを不機嫌にさせたのは初めてかもしれない

否定ばかりする僕の性格に問題があることは分かっている

けれども、どうしたって刻印童子の力を借りられるとは思えない

 玄関を開けると、木屑がぽろぽろと降りかかった。いつ頃建てられたのかは分からないが、この家も大分傷んできている。

 ゆうなは戸口を閉めて荷物を置くと、狭い廊下を渡り、妹の部屋の前に立った。

 詰まっていた息をほどき、深呼吸した。体の隅で固まっていた血液が収縮し、体温を上げていく。

 腹の底から込み上げてくる気持ち悪さをこらえ、少しでも落ち着こうと努力した。

妹はまだ、生きてるだろうか

 彼は帰宅した際、必ずこのことを疑った。

 ふとした瞬間に横切る、血を吐いて横たわる妹のイメージは、心の奥底に巣くっていた。それはぐるぐると脳内を巡り、毎晩悪夢を見させた。

 小さく扉を叩き、中から返事が微かにしたことを確認すると、そっと開いた。

 扉を開けると、蝋燭の仄かな光と、薄暗い陰がなだれ込んできた。

 四畳半ほどの狭い部屋の中、寝台の上で硝子の少女が横たわっている。

………

 青白い顔。髪はまるで絹糸のように繊細で柔らかだった。腰まであろうかという長髪が、白い布の上で踊っている。

 美麗ではあったが、どこか生気のない顔をしていた。人間というよりも白磁の人形に近かった。

 少女はゆうなの入室を認めると、長い睫毛で縁取られた瞼をゆっくりと開いてゆうなを見た。

おかえり…

 安堵感が背中に、どっとのし掛かった。

ただいま
体調はどう

だいじょうぶ…お兄ちゃんが薬を作ってくれたから…

父さんは何してる

お父さん、今日は帰ってないよ…

それなら良かった

 ゆうなは言い、寝台の傍にあった茶碗を取った。小ぶりの茶碗の中が空になっていることを確認する。

体調に変化があったらすぐに言うんだよ

うん…

明日のぶんの薬の支度をしなければ

 妹の弱々しい瞳に見送られながら、ゆうなは部屋を出た。

 台所に行って薪をくべ、薬湯を煮た。鉄製の鍋の中で、すり潰された薬草が渦巻いている。

 医学書の知識から、ゆうなが独自に作り出した薬だった。

この薬は病気に覿面、とまではいかないが、それでも随分と症状を和らげてくれている

けれども、病が進行し、命が尽きてしまうのは時間の問題だろう

病状は刻々と悪化している…

三週間ほど前に血を吐いた
二週間前には発熱し、朦朧とした状態で生死の間(はざま)を彷徨った

 彼女の病状はいつも予想だにしないもので、原因は全くの不明であった。

 だからこそゆうなは医学書を読み漁り、薬の捻出に努める必要があった。

 ゆうなは少し苛立っていた。先ほどからとばりの与えてくれた林檎が、ちらちらと視界に映る。

赤くつやつやとした林檎
平生ならば、僕の心を元気づけてくれるけれど

まるで、刻印童子の件を訴えているように思えて仕方がない

いや、とばりの言うことにも一理ある

一か月後にでもののが死ねば、僕は祝福の儀に行かなかったことを後悔するかもしれない

 彼は刻印童子の元に向うべきか、医学の勉強を続けるべきか、天秤にかけなければならなかった。

素人の医学か、平民の神頼みか

どちらも途方のない事のように思える…

 ゆうなは薬湯がすっかり煮え立ったのを確認すると、容器に入れて妹の部屋に運びに行った。

 その後は自室に戻り、とりつかれたように、本棚の医学書に没頭した。

 彼はひたすらに頁を捲り、活字を貪った。

 刻印童子のことは、脳内から閉め出された。

 次の日の朝ゆうなが出勤し、写字を進めていると、「刻印童子」という文字が目に飛び込んできた。

 彼は思わず手を止め、その記述をまじまじと見た。

『刻印童子』
 刻印童子は神の子供とされ、額に刻印を戴いていることがその名に由来する。

 額の刻印は摩訶不思議の力を孕んでおり、人ノ地における邪気を浄化する力を持つ。

 それ以外にも、様々な奇跡を引き起こすことができる。

 彼らの一切は国によって厳重に保護されており、平生であればまず目にすることのできない神聖な存在である。

祝福の儀
刻印童子が特定の人物に祝福を与える儀式。
 聖職者のみ参列が許される。貴族、平民、暗民の出席は認められない。

 祝福の儀が公で執り行われるのは、有史以来の四百年で初めてのことだった。

 昨夕、とばりが焦っていたのももっともである。

恐らく当日は、興味本位の貴族たちがごった返しているんだろう

たとえ入れたとしても、席を望む貴族たちに追い出される可能性だってある

やはり無理だ
平民の入る余地なんてない

………

 ゆうなは自分が呼吸し辛くなっている事に気が付いた。医学書も、刻印童子も、全く役立たない存在に思える。

何をしても八方塞がり
まるで、光の一つも差さない部屋に閉じ込められているようだ

僕は何もできない
僕は無能だ

 妹に何も出来ない自分に価値を感じなかった。

 これほど自己嫌悪に陥るのなら、寧ろその命が尽きてしまった方が楽なようにも思えた。

でも僕は、ののを置いて死ぬことなんてできない

 彼は再び書物に向き直ると、決意を持って筆を走らせた。

pagetop