勤務時間が終わると、ゆうなは図書館の裏口からこそこそと退出した。

 図書館に平民がいると、品評が下がることになる。できるだけ来館者の目につかないように義務づけられていた。

 辺りはすっかり十八刻の夕。太陽が西の空に落ち込み、街路を赤く染め上げる。

 うっすらとした星のもと、春告鳥の鳴き声が響き渡った。

 人の往来は相変わらずで、がやがやとした喧騒が流れていく。

 歩いていると、肩が何かにぶつかった。

あっ

 二人が声を上げたのは同時だった。ぶつかってよろめいた少女の腕を、ゆうなは反射的に掴んで支える。

申し訳ありません。お怪我はございませんか

  転倒を免れた少女はしばし呆然としていたが、ゆうなの言葉を聞くと我に返ったのか、すばやく飛び退いた。

ああ、しまった…

つい腕を掴んでしまった
下賤な平民に触れられるのは嫌だろうな

………

………す

すすすすす

すすすすみません!

 少女はあくせくと謝った。何度も頭を下げるため、亜麻色の髪が、肩ぎわで揺れた。耳朶は真っ赤に染まっている。

 貴族らしかぬその態度に、ゆうなは一瞬に限り驚いた。

…?

どうして謝るんだ
どう見ても平民相手なのに…

まあ、理由はともあれ助かった

謝る必要はありません
不注意だった私が悪いのです

 しかし少女は小動物のように首を横に振ると、震える声で答えた。

…いいえ

いいえ!

ぶつかったのは私です
あなたは悪くない

………

 少女は黙ってしまった。平民と貴族の異色なやりとりに、周りの視線が突き刺さる。

 少女は集まる視線に困惑した顔つきになった。彼女はおろおろと目玉を動かしたあと、一礼して足早に去っていった。

し、失礼します

………

北与ノ町にも、ああいう人がいるのか

少し、驚いた

 再び帰路を辿っていると、今度は後ろから声がかかった。

おおい、ゆうな君

とばり

 前に現れたのは、体格のいい少年だった。墨色の着物に、薄手の外衣を羽織っている。

 友人の姿を見つけて飛んできたのだろう。
 髪は平生通り整っていたが、前髪だけは汗ばんだ額のせいでしなっていた。頬は上気し、どこか赤い林檎のようだった。袖の紐が、ほとんどほどけかけていた。

こんな所で奇遇だな

仕事の帰りかい

今日は、頼まれ事でな
一緒に帰ってもいいか

もちろん

 ゆうなの唯一無二の友人は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、彼の隣に並んだ。

………

………

君がこの前くれた林檎、おいしかったよ

え?ああ

そりゃよかった

心、ここにあらずといった感じだな

いつものとばりなら、快活な笑顔を浮かべているのに

でもどうして、高い林檎が手に入ったんだい
林檎なんて、平民が食べるものじゃないだろ

そりゃ、なんつうか、あれだ

謎多き美少年だからな
俺は

………

何だか今日は、普段の君じゃないね
考えにふけっているみたいだ

ばれちまったか

実はお前に伝えたいことがあるんだ
しかし、どうもまとまらない

いいよ
言ってみて

へへ、驚くなよ

どうだろうね

六日後に催される、南里ノ町の祭りでな…

刻印童子様が、「祝福の儀」を公に執り行うんだってよ

…!

 刻印童子。

 その言葉を聞いたゆうなは目を二、三としばたたいた。
 この刻、この瞬間、この場所で、この言葉が出るとは思いもよらなかった。

刻印童子…

これは、僕がずっと求めていた言葉だ

そして、絶対に縁がないと、あきらめていた言葉でもある

なぜ、今…

 彼は一寸悩んだ。内に潜む野心を触発する言葉を聞かされた彼は、逸る気持ちを抑えつけるのに必死だった。

 最終的には、次の短い台詞を絞り出すのがやっとだった。

…そう

…!
随分素っ気ない反応だな

驚くなと言ったのは君じゃないか

まあ、そうなんだけどよ
でも、興味はあるだろ?

何に

だから、刻印童子様にだよ

 興味がないと言えば、大きな嘘になる。しかし、ゆうなはかぶりを振った。

…興味があったとしても、僕のような平民には関係のない話だ

 とばりの顔色が変わった。先刻までの屈託のない表情は消え失せ、強張った顔つきになった。

本気で言っているのか

ああ、いつも朗らかなとばりが、こんな表情をするなんて

優しいとばりのことだ
恐らく刻印童子について聞いた時、心を躍らせたに違いない

僕がきっと喜ぶだろうと

自分のことのように喜んで

悪いが本気だよ
本気だからこそ無関係に感じるんだ

どうして

どうしてもだ
だって、あまりにも現実味に欠けていると思わないか

まず、刻印童子様の奇跡の力が、本当に存在するのか分からない

おい、そんなこと言ったら法に触れるぞ

…第二に

僕のような平民が南里ノ町におもむき、祝福の儀に参列できるとは思えない

そして第三の理由

そんな状況下で刻印童子様の御力をお借りできるなんて千載一隅の事態

実行できると思うのかい、とばり

だからといって諦めるのか

諦めるとは一言も言ってないさ

矛盾してるぜ
お前のそれはとうに諦めているだろう

僕の心は諦めていないさ
だがどう考えたって無理なんだ
違うかい

………

 気づくと、二人はすでに東午ノ村に差し掛かっていた。

 開けた土地の上、深い夕闇が、二人の背中に押しかかる。左右に広がる田畑は暗く、底無しの闇が眠っているようであった。
 ゆうなの耳に、小さな虫のさざめきがやけによく響いた。

…お前はいつだって悪い方向に考える

ああ、とばりの声

無念の響きと、微かな幻滅が含まれている

お前は本気でののさんを助けたいんだろ
だったら何でもやってみるのが常套なんじゃないか

刻印童子様の御力があったら縋りたい、などと言っていたのは、お前だろう

 妹の名を出され、ゆうなは目を伏せた。

 のの──

 それが彼の妹の名だった。

 彼が人ノ地で最も愛し、傅いている、大切な家族の名前だった。

 仕事をし、薬代をかき集め、医学書を読み漁る。常日頃からやっている彼の行為の殆どが、妹のためのものであった。

とばりの言うことももっともだ
実際、僕の心は揺れ動いている

けれど、どうしても踏み切れない何かがある

 ゆうなはため息を吐いた。頑固な彼は自身の判断が間違っているとは思えなかった。

 彼は遠くの地平を見つめ、小さく瞬いている蛇星を見ながらとばりに言った。

あれは喩えだよ

 とばりは何も言わなかった。黙ったまま、二人は帰路を辿る。

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