西方の夜空は紫紺だというが、本当だろうか。

簾を上げて、ゆうなは夜明けの空を見やった。

天上に神星と呼ばれる星が眩く輝き、金色の光をもたらしている。

神星の周りには猫星が散開し、西の空では赤い狼星が明滅している。

南の空では、薄くたなびく蛇星が見えるはずだった。

神星の周りには、多く動物の星が散らばっている

昔、神さまにつき従っている動物たちの神話を、誰かがしてくれたな

あれは──母さんだったか

 ゆうなは簾を下げ、忘れ物はないかと辺りを見回した。
 辞書や筆の入った鞄は玄関先に置いてある。台所では、薬湯の準備が整っている。

 台所の横には籠があり、中には赤々しい林檎が入っていた。彼はその表面を、愛おしそうに撫でる。

うん、大丈夫そうだ

彼は鞄を掴んで、家をあとにする。

ゆうなが東午ノ村に生まれてから十四年が経つ。

本来ならば、働きに出ていい年ではない。しかし年齢を偽ってでも、働かなければならない。

貧しい平民の一家。父は酒飲み、妹は病気。

きちんと働けるのは、彼だけだった。

 街道を進むに連れて、人の往来が増え、ざわめきが大きくなる。

 北与ノ町は、歩いて一刻半ほどかかる場所にあった。

 田畑ばかりの東午ノ村に比べ、北与ノ町は華やかで、立派な建物が多い。

 周りの人間はほとんどが貴族で、きらびやかな衣装をまとっていた。ゆうなの地味な着物が、むしろ目立って見える。

 彼はそのことを念頭に入れながら、行き交う人にぶつからないように、俯きがちで通り過ぎる。

はっはは、きたねえ

朝から平民が何の用だよ

笑い声、唾かけ

気にしちゃだめだ
早く職場へ…図書館へ向かおう

 商店の通りを抜けた先にある学事区に、彼の目的地である図書館はあった。

 彼は図書館の前に立つ時、足の竦むような感覚をいつも覚えていた。扉を開けた瞬間に怒鳴り散らされるか、拳を握られて追い出されるかをいつも覚悟していた。

 やや緊張した面持ちで扉の取っ手を捻った。彫刻の豊かな鉄製の扉はぎいと開き、内部の人間にゆうなが来たことを伝える。

 中にいた職員たちが、一斉にこちらを見た。来訪者用の「閲覧ハ十一刻ヨリ」と書かれた看板の脇を通り抜け、ゆうなは中に踏み入る。

おはようございます

 返事はなかった。先ほどまでゆうなを見ていた職員は、何も見なかったとでも主張するように、黙々と作業を続けている。

 ゆうなは奥にある小部屋に入ると、中にいる男二人に声をかけた。男たちは書物ばかりの部屋の中、机に向かって作業していたが、ゆうなを見ると舌打ちした。

今日の作業は如何いたしましょうか

 ゆうなが言うと、男の片方が部屋の隅にある分厚い本を指差した。

昨日と同じだ。さっさとやれ

 ゆうなは頷き、本を傷つけないよう丁寧に取り出すと両腕に抱え込んだ。

 乳児の身長ほどの高さのあるその本は、ずっしりとした重みをゆうなの腕に伝えてくる。すんとした埃が鼻を突いた。彼は書物を抱えながらやっとこ扉を開け、小部屋から出た。

朝からきたねえもん見ちまった

 男たちの笑い声が去り際に聞こえる。

 ゆうなはそのまま別の小部屋に向かうと、机の上に本、椅子の上に腰を下ろした。それから印矩の入った壺、筆、羊皮紙を取り出すと、書物の内容をさらさらと写本していく。

 古い本だった。いつの時代に書かれたのかも分からない年代物だった。
 字体はやけに角張り、刻印化された印象を受ける。大きさは大小様々、見やすいとは言えない字がまばらに列を作っている。

『創造された私たち』
 この大地が何刻(いつ)からあるのかは、神様しかご存知でない。

 「人ノ地」。この大地はそう呼ばれている。
 神様は人ノ地を四つに区切り、また、人を四つに分けた。

 大地は
「東午ノ村」
「西架ノ村」
「南里ノ町」
「北与ノ町」の四つに。

 人は
「聖職者」
「貴族」
「平民」
「暗民」の四つに。

 四つの身分の中では聖職者が最も尊く、次に貴族、平民。暗民などは人と呼ぶにも値しない卑しい生き物である。

 身分差は「人ノ地」の絶対であり、何人にも覆すことは許されない。

 ゆうなは書きながら溜め息を吐いた。何て内容だ。

 人を四つに分ける存在など、平民であるゆうなにとっては不公平もいいところだった。しかし、そんな存在がこの国の神とされ、崇め奉られているのが現実でもあった。

 特に、暗民と平民の扱いは、惨憺たるものだ。

 住居を決められ、職業を決められ、一日の食事の量も制限されている。身分の低い者ほど高い税金が課せられ、公共事業の恩恵を不十分に受ける。そのような差別が当然のように行われていた。

 身分制度に疑問を抱く者ももちろんいた。しかし、この国に伝わる神話は、抗議の口を開くことを禁じた。

 神様が、お決めになったことなのだから。神様は絶対、神様がお定めになったことも絶対。

 ゆうなは上の身分に頭を下げ、口を閉ざし、自身が襤褸雑巾か何かであるかのように、振る舞わなければならなかった。

おい、手が止まってるぞ

 周りの貴族から声がかかった。

 貴族だらけの職場で、ゆうなだけが浮いている。
 難解な書物もすらすらと読破する能力を買われ写字生になったゆうなだったが、周りからの風当たりは厳しかった。

 申し訳ありませんと謝り、速度の落ちた手を動かす。彼は唇を噛み締めながら、紙面に散らばる文字たちを拾い集めた。

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