55年前を思い出していた鋭二郎は、目の前の妻の顔がぼやけてしか見えない。二つ三つ重なるように聞こえる音。空に水を引き延ばした中で揺れているようだ。
分かっている。典子の言葉には無理があった。この状態で助かるわけがないのだ。
…………さんっ!
鋭二郎さん!
しっかりして下さい、
もうすぐ救急車が来ます。
それまで頑張って下さい!
55年前を思い出していた鋭二郎は、目の前の妻の顔がぼやけてしか見えない。二つ三つ重なるように聞こえる音。空に水を引き延ばした中で揺れているようだ。
分かっている。典子の言葉には無理があった。この状態で助かるわけがないのだ。
不思議だ。
今迄……、気にもとめて
いなか、った言葉が、
浮かんで、きたよ。
遠くから聞こえる音がサイレンだと理解したのは、鋭二郎以外の者達だ。
洋一の祖父が、
死の、際に……、
言ってたんだ。
話す事が徐々に難しくなってきた鋭二郎だが、そのまま続けた。
『55、年前……、戦争で
さ、ん人、殺……し、て
しまっ、ッハァ、ハァ、た。
何の、罪も、な、い
民間、じ……んを』
『それを……フゥー、ハァ
思、ぇば…………わ、し、は
長生き、し……すぎ、た』……と
何故若い頃の前夫・洋一の祖父の話をするのか?
典子にはさっぱり理解が及ばなかった。だが、耳を塞ぐ事など出来る訳もなく、それを聞くしかなかった。
ッハア、ゥグォ!
ボ、クも、ぃ、しょだ。
こ、こまで、い……しょだと、
な、とく……いく。
グッ、ハ、ォグ!
ぼく、も……、
……なが、く……
ぃ……、
きす、
ぎ
た
ん
だ
――55年前。
クソみたいな会社だな。
八ヶ月……。鋭二郎が社会に出て、会社務めが続いたのは、僅か八ヶ月だった。
勿論、耳を傾ける価値のない先輩社員も居た。だが、根本を言えば、地道な事を嫌う鋭二郎の性格が問題だった。
「こっちがあんな会社見限ったんだ」
それが鋭二郎が信じる現実だった。
チッ、金がねぇ。
何で俺がこんな苦しい思いを。
洋一は上手く
やってるってのに。
仕方ない、話聞くのも
めんどくせーが
洋一のジジイんとこでも行くか。
お前達ぁ、自分の幸せに
気付いておらんだけじゃ。
カビの生えた話を。
知るかよ。
青臭ぇんだよ。
爺ちゃん、
俺達はずっと友達だぜ。
その点は安心してくれ。
それに……
?
俺と典子は結婚する!
な! 何だと!
っく、っそ!
チキショオ!!
……
の、典子さん!
お、おのれぇぃっ!
ようやくか。
わしぁ、
五、六年も待っておったぞ。
いや、待つのが早すぎるだろ。
その時、学生じゃんかよ。
許せん!
俺が求めるものを
全て洋一が!
何から何まで!
金っ!
仕事っ!
女っ!
こいつさえ
居なければっ!
おめでとう。
僕は幼稚園の頃から
待っていたんだよ。
許さん!
何もかも
俺より持っている
お前が悪い!
必ずお前を消してやる。
第五話に続く