……ふう

月もこの町も、随分丸くなったもんだ

それとも丸くなっちまったのは俺の方かい?

――DAY 0――

深夜

深夜に煙草を溶かした空気は凍り始め、

曇天からは力強く雪が降り始める。

 ここはロシアのとある田舎町。









その町に雪が積もり、

その激しさが人を拒むように増してきたころ



一人の少年が宿屋サスリカの玄関にたどり着く。

イリヤ(イーリャ)

はあ、寒かった……

イリヤ(イーリャ)

すいません、予約していたイリヤです。
イリヤ・イリイチ・パヴロフ

……はい。4号室

イリヤ(イーリャ)

ありがとうございます。
あの、ちょっと聞きたいんですが

数日前からこの町に、僕くらいの女の子が来ませんでしたか?
リーリヤって名前なんですけど

さてね

イリヤ(イーリャ)

えっ?

イリヤ(イーリャ)

僕の妹なんです。
15歳くらいの茶色の長髪の……
このホテルに泊まりませんでしたか?

朝飯は7時だよ

それだけ言うと、

店主は質問を拒むかのように

席を立ってしまう。

イリヤ(イーリャ)

待っ……

 イリヤは、

飾り玉の4つ付いた部屋のカギを

忘れる前に、と手に取った。

話を聞いてください!

 2号室で荷物を整理していた男は、

 大声に手を止めて部屋の外を覗いた。

お願いしま、うわっ

 その開いたドアに、少年がぶつかる。

痛っ……

気をつけな、坊や

すいません。……あの

 少年は やや口ごもる。

どうした?

この子、見てませんか?

 少年は、やや擦り切れた絵を差し出した。



柔らかな鉛筆で丁寧な絵を描いた上に

わずかに色がついている。

妹なんです

10日くらい前にこの町に出かけて、すぐに帰るはずだったのに戻って来てないんです

まだ成人もしてないんです!

このホテルに泊まるって聞いてたのに、知らないって言う!

 男が口を挟む隙も与えず話し続ける。

 そのうちに、口調が強くなっていた。

まあ、落ち着けよ。
ちゃんと聞くから

本当ですか?!

 男は廊下を軽く見回し、

誰の気配もないことを確認すると

 部屋に少年を呼び入れた。

アダムスキー

俺のことはアダムスキーって呼んでくれ。
……この絵は、坊やが書いたのか?

写真なんて高価なもの、撮ったことありませんから。

妹の……リーレニカの顔くらいなら、いつでも描けます

アダムスキー

お嬢ちゃんの名前は『リーリヤ』か

イリヤ(イーリャ)

あっ、はい。
えっと、僕はイリヤです。
イーリャって呼んでください

Ж

ロシア人は、知り合い以上の関係では
名前をそのまま読む代わりに

愛称

特に家族や、絆の固い親友同士なら、
さらに親しい表現の

親称

を用いてお互いのことを呼びあう。



愛称は、あだ名が
最初から決まっているようなもの。

一方親称は、同じ呼び名でも
相当に親しくなければ
使うのは失礼にあたる。

そして、愛称も親称も
 名前によって決まり、
呼び方のパターンもほとんど決まっている。

例えば、今回なら

「イリヤ」の愛称は「イーリャ」
「リーリヤ」の親称は「リーレニカ」

となる。


※ 愛称・親称にはいくつかパターンがある。
例えば、イリヤの愛称は他にも
「リューシャ」などがある

Ж

アダムスキー

いったいこんな辺鄙な町に何しに来たんだい? お嬢ちゃんは

イリヤ(イーリャ)

僕は知らないけど、リーレニカの知り合いだって人から手紙が来て。

それにリーレニカは、最近、一度ちゃんとした森に行ってみたいと言ってました

イリヤ(イーリャ)

こんなことになるなら、
行かせなきゃよかった

 イリヤは力なく首を振った。

イリヤ(イーリャ)

それで、アダムスキーさん。
何か、知ってることはありませんか?

アダムスキー

悪いな、イーリャ。
俺はこの町に来たばかりなんだ

アダムスキー

だが、少しはこの町の奴らを知っている。手がかりを見つけたら教えてやるよ

イリヤ(イーリャ)

……ありがとうございます!

アダムスキー

それはそうと、とりあえず温かくして休んだ方が良い。

この猛吹雪の中来たばかりなんだろ? 今にも凍りそうな顔色だ

イリヤ(イーリャ)

あっ、すいません

……

アダムスキー

風に吹かれて癖のついた髪を搔きながら

 走ってゆく後ろ姿を、

 アダムスキーはなぜか厳しい目で見ていた。

 アダムスキー・アバルキン。

 情報屋、男。


それ以外の個人情報は、彼以外知らない。

この町は北半分を大きな森に囲まれる。




暗く陰鬱な針葉樹は

地から逆さに氷柱(つらら)が生えた

 かのように鋭く尖り、


この樹海には

冬に迷い込めばもう抜け出せないと言われる。

サスリカ

ロシア語で「氷柱」を意味する語だ。




どこにあるのか、なんという名なのか

告げるわけにはいかないこの町を、


この短くささやかな語りの間

宿屋の名を借りて、仮にそう呼ぼう。

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