第9章
朱の夜
………
コツコツという足音に、私は顔を上げる。
足音で、それが兄さんだと分かるので書庫の扉まで移動する。
もちろん、読みかけの本を持ったままで。
私が扉に辿り着いたところで、兄さんが話し始めた。
いるか?
今、忙しい所
話はすぐに終わる。どうやら、あの二人の間に子供が出来たそうだ
ふぅん……
私は手元の本を捲りながら兄さんの話を聞いていた。
それで、オレたちはそれぞれ独り立ちするように……ということになったんだ
……了解
了解って……お前、それで良いのか?
……私がやることは変わらない、引き篭もって読書……それが出来れば問題ないよ
お前なぁ……まぁ……あの人たちが何を言おうと、オレがお前を引き取るつもりだけど
……………あと、飯は置いておくから、後で食べろよ
今読んでいる本が怒涛の展開……………それどころじゃないの
ページを捲る手が止まらない。
今、一番盛り上がっているところなのに……
倒れたら続きが永遠に読めないぞ
…………わかった。中に入れて
おう
続きが読めないのは嫌だった。
だから、仕方なく兄さんに従って扉を少しだけ開く。
パンののせられたトレイを受け取る。
兄さんの足音が遠ざかるのを確認してため息を吐いた。
(どんな重大な話かと思ったら、そんなことか)
………
私は私物を入れている机の引き出しを開いた。
まだ学校に通っていたころのものが残されている。
学生生活は最悪の日々だった。思い出すだけで喉の奥から黒い何かを吐き出してしまいそうになる。
これは……
それは数冊のノートだった。確か、クラスメイトの誰かが用意してくれた授業のノート。
ページをめくり、その丁寧に書かれた文字を見る。
……字が綺麗すぎる
本を読むのはここまでにしようかな
読みかけの本を本棚に入れる。
そして、ノートを机の中に戻して、引き出しを閉じた。
机の上にのせられたナイフを手に取る。このナイフは兄さんから貰った護身用のものだった。
これは必要だよね………
怪しく光るナイフに微笑みかける。
大丈夫、いつでも出来る。
あの人たちは、私の処遇について兄さんたちには伝えていないみたいだね
無意識に天井を見上げる。
あの人たちはお金が必要なのだ。
どうやって彼らがお金を手に入れるか、考えるまでもなかった。
数年前、あの男がこの家に来た時から分かっていたことだ。
あの人たち、聞こえていないとでも思っていたのかな。この真上ってリビングなのにね。話し声、全部筒抜けなんだよ
………
いつものように兄さんがバイトに出かけた。
それを見計らったかのように彼らが言葉を交わす。
貴方の娘だけど、あいつに売っても良いわよね
あまり金にならないと思うが
だって、邪魔ですもの。私は嫌なのよ。前妻の面影があるのが視界に入るなんて。
そうか………
ついでにソルも引きとって貰いましょう。あの子は、あの人に似ているから……顔を見るだけで苛々するの!!
じゃあ、今夜中に話をまとめて連れて行ってもらいましょうよ。これで、静かになるわ
下品な笑い声が聞こえた。
この笑い声を聞くだけで心が穢れてしまいそうで、私は思わず耳を塞いでいた。
酷い会話だと思う。
大人たちは自分の子供を売り飛ばすつもりだ。
それを何でもないように話していた。
(これ以上は聞きたくないな)
声が聞こえないところまで離れて軽く息を吐く。
………
(本の、続きを……読もう)
時間がゆっくりと過ぎていく。
あの二人の会話が信用できるのなら、兄さんは今夜帰ってこない。
私は読んでいた本をパタンと閉じた。
やるなら………
今だ……
そう思い、呼吸を整えてナイフを握りしめ………
天井で大きな物音が聞こえた。
…………今のは?
こんな夜更けに有り得ない音。
ナイフは握りしめたまま。これを握っていないと、狂ってしまうような気がした。
様子を見なきゃ
そっと、扉を開けて伺う。
………
黒い影が見えた。
黒い影は、あの人たちを殴っている。
たすけ……
命乞いをする声を、彼は聞いていない。
何度も、何度も殴っていた。
気づかれてはいけない……
………
そう思った私は静かに扉を閉めた。