織田信長、晴渡国来訪、十日前……――。
織田信長、晴渡国来訪、十日前……――。
日向の村長である和泉孝四郎の元に、妻が来客を告げた。
妻は豪奢な着物を身に纏ってふくよかな体を揺らし、みすぼらしい姿の男を満面の笑みで部屋へどうぞと入れる。
眉をつり上げると懐から差し出してきた真っ赤な封筒に和泉は目を丸くした。
金箔で、丸の中に『三』の文字。晴渡国王の家紋だ。時折り、国から届く真っ赤な封書と同じそれだった。
つまり、顔の伺えないこの人物は晴渡国の王室関係者だ。妻もそれを見せられて家に上げたのだろう。
だとしたら、この人物は使いの者。いったい、何が目的だというのだろうか。
差し出された手紙を受け取り、封を開くと真っ赤な紙に黒文字で文章が書き綴られていた。
その内容は……――。
皇女暗殺のために、場所を貸してほしい……――
皇女を消して、別の王を仕立てる。
現在の王政は勝手がきかない大臣が暗殺を企んでいるということだ。
今、晴渡国を収めているのは希代の皇女。先見の目を持つ占い師でもある才女だ。
以前は大臣達も好きなことが出来たが、その悪事が全て彼女の前に筒抜けとなり、平民並みの給料に減給させられて馬車馬のごとくこき使われていると聞く。
現在、皇女は晴渡国の各地を回って、様々な悪事を見抜いては平民達から絶大な信頼をもぎ取っている。
そんな皇女がつい最近になって、織田信長に会うため日向を訪れると言い出したのだ。
あの皇女がやってくれば一目で不正に釣り上げている税率が見抜かれる。
和泉はそのため、一時的ではあるが住民税といった税率を本来の利率に下げ、集めた領収証の偽造している最中だ。数年間の帳簿は偽物があるから良いものの、そういった細かい点の改竄をせざるおえなくなり多忙を極めていた。
例えそれが事実だったとしても、証拠がなければ立件はできない。
和泉さん。ぜひ、あなたにお頼みしたい。
領地であれば、そういう場所はいくらでもご存知かと。
教えていただけませんか
老いた男の声だった。
懐から差し出された包みから現れた札束にニヤリと下品な笑みが浮かんだと自分でも分かった。
和泉は亡き父から叩き込まれた、最敬礼で丁寧に頭を下げると、引き出しから鍵を取り出した。
私が所有している別荘がございます。
そちらをお貸しいたしましょう
感謝する、と改めて手渡された大金。
心の底から沸き上がりそうになる嘲笑をこらえた。
たかだか未来が見えるだけの惰弱な女が王座に就くなど愚かしい。
女が王など認めない。それならば、この和泉の方がよっぽど相応しいのだから。
妻がもてなしの茶菓子を持ってきたが、男はすぐに出ていった。
和泉が持っている大金を見て、妻は嬉しそうに笑った。
ほら、最近、洋服が流行ってきているでしょう?
あれを仕立ててもらいたいの。
いいかしら?
あぁ、構わない。どうせ、はした金だからな
和泉は、平民達がせかせかと納めた金をぽいっと机の上に投げた。
織田信長、晴渡国来訪、一ヶ月前……――。
そこは、果夜国のとある町の貧困街。
ボロい家と家の間に開いた路地に置かれている横長のゴミ箱の上に座っている男がいた。
手に持っていた財布から札束を抜き取ると放り投げる。
辺りは貧相な男達が泡を吹いて倒れている。息は、なかった。
そんな男達の懐から抜き出した財布の中身を抜き取っては財布をそこら辺に投げ捨てていた。
死人から金銭を剥ぎ取っている男に、ボロ布を纏った人間は声に緊張を滲ませて問う。
お前が、権兵衛か
ボロ布の男の問いに、振り向く。
たった今、三人の男達の命を潰した手際を直視していた。
この権兵衛は呼んだ屈強な男に向かって分厚い何かが入っている茶封筒を差し出した。
頼みたいことがある
用件は
顔色を変えることもなく応答してくれたことに、ボロ布を纏った男は少し安堵の色を浮かべた。
織田信長の暗殺を依頼したい
そいつは……強いんだったな
そうだ。
奴は一ヶ月後、晴渡国に一週間滞在する。日暮に二泊、朝陽に三泊、日向に二泊する予定だ。
その一週間に下してほしい。
これは依頼料だ。
成功した暁にはこれと同額を……――
最後まで言い切る前に、権兵衛は音もなく動いていた。ただ通り抜けただけのような光景だった。
しかし、ボロ布を纏った男は膝を折ると顔面から突っ込むように地に伏した。ピクピクとこめかみがひきつって、小刻みに震えている。
息はある。ただ、意識がない。
出てこい。コイツは保険だろう
気絶した男の頭を蹴って、権兵衛は顔を上げた。建物の屋根の上に、数人の人影があった。彼らはそこから飛び降りて、権兵衛を取り囲む。黒尽くめの全身に、目だけが出ている覆面……――果夜国の隠密部隊の忍だったと権兵衛は認識していた。
権兵衛は果夜国の裏世界で殺し屋として名を馳せている男だった。名前は分からない。彼に名を尋ねても、好きに呼べという。その様から『名無しの権兵衛』からついた名が今の彼の呼び名になっていた。
名無権兵衛――……それが男の今の名前だった。
いくら出す
一千万
お前達の雇い主が抱いている殺意がその程度なら断る
権兵衛はその漆黒の瞳を無感情に光らせて、くるりと背を向けた。
依頼主に伝えろ。お前の殺意を金にしろ、一千万程度なら織田信長のあとにお前の首も切る
それは遠回しにもっと金を寄越せと言っているものだった。
詳細情報を持ってくるように付け足せば、忍び達は、了承した、と飛び上がった。
屋根に着地すると夜の闇に紛れて消える。
金をポケットに詰めて権兵衛は青白い下弦の月を見上げた。
人の命など、金で買える。
そして、国の戦争も。
月が、白い歯を見せてながらそうやって嘲笑しているようだった。
晴渡国で織田信長を殺せば、晴渡国刺客が手を出したのだと言い張って、晴渡国へ堂々と宣戦布告できる。そうやって国家間戦争に仕向けたいどこかの誰かがいる。
そして晴渡国が無実を訴えても仕掛けられれば応戦せざるおえない。となれば、火の海になるのは国境付近だろうか……――そこまで考えて、権兵衛は思考を放棄した。
どうでも良い。
この国がどうなろうが、隣の国がどうなろうが知るところではない。この島に生きている以上、自分に関係ないわけではないが、結局、使われる理由はどの国へ行っても同じ。
邪魔物の排除。
例え、どれだけの善人であろうとも依頼があれば殺すだけだ。
そもそも、善人ほど愚かな生き物はいない。
悪人ほど長生きし、善人は早死にする。
生きてなんぼだ。
死んでしまっては意味がない。
気絶した男が握っている金の入った封筒を拾い上げて、ボロボロになっている革袋へねじ込んだ。もう長年愛用している旅の友は、穴が開いても布を当てて使っていた。
さて……――最後の方は、日向とか言ってたな……
人殺しを請け負った男はまずは貧民街を出る。そこから晴渡国へ入る手段を探そう。
町の下調べは重要だ。
敵をどうやって陥れるか。その町の中を熟知して、いかなる状況の戦略も立てられる。
ただ、時間がない。
二ヶ月そこらは時間がほしいが……――金はある。
男は闇に溶けるように貧民街を後にした。