おちる、おちる、おちる。





 黒い世界に見えない滑り台があって、そこから真っ白い穴へ向かって。まるで黒い紙に丸い穴を開けたかのように穴が開いている。そこから光が差し込んできているわけではないのだ。ただ、穴だ。





 すぽん、と音が聞こえてきそうな風に落っこちた。





























 しかし、その滑り台の先は少し上向いていて、賢誠の身体をふわっと白い空間に浮かばせた。それから、ゆっくりと白い世界に身体は降りていく……ーーその下に、天之御中主神。

 ゆっくりと降りてくる賢誠の両脇に手を差し込んで、眉尻を下げた。





大丈夫だったかい?

大丈夫なわけないじゃんかー!

河童に危うくケツ掘られるところだった!

河童が、人間と交わろうとするとは思えないが……――まぁ、お前が無事で良かった。

彼と会えた

河童とか!? あの変態と会わせたかったのか、アンタ!?

違う。今の魔術師だ。
金の髪の男だ

あの天使様、魔術師なの?







 すると、天之御中主は、おや、と目を瞬かせた。




お前には彼が天の使いに見えたのか?

すごいな、お前は。

普通はあれだけの量の魔力を浴びると恐怖する者が多い……――あんまりにも魔力が研ぎ澄まされているから、鬼の気配と似ているよ。

程近いとさえ思うだろう。
あれは百戦錬磨の魔術師だ







 天之御中主は安堵したように穏やかな笑みを浮かべて小首を傾げた。


 それは当たり前だと思う。




でも、昔話にある鬼って、元々敗者を化け物扱いしただけの表現ですよね








 そういう説もある、という話だ。


 自分の武勇伝を華やかにさせるために、化け物と戦ったと表現することが昔はあった。




 悪いことをした人間を、そうやって蔑むことでも……――また、強者が弱者を下した表現でもあった。



 天之御中主は、色々なことを知っているなと笑いかける。






そうでもある。
負けた者を蔑んだり、敗けた人間をあえて鬼と表現し、後世へその威光を残していくお家もある……――だが、それは人の捉え方だ、賢誠。

彼の純粋で協力な魔力をその身に受けても尚そう思ったのなら、お前のその感性が正解だ。

間違っていないよ。

生けとし生けるものには表裏がある。
慈悲深く優しい面もあれば、鬼のごとく恐ろしい面もある。

お前は、本能で彼のことに気づいたのだろう。

それは褒められたものだ







 ぐいん、と何故か急に身体が天井へ引っ張られた。とにかく勢いよく引っ張られて賢誠は咄嗟に天之御中主へと向かって手を伸ばした。彼も数瞬遅れて賢誠に手を伸ばすも、その手は掠めて握り損ねる。



 瞬く間に、賢誠は天井へ吸い込まれて黒い世界に引きずり込まれた。



 白い穴が急激に遠ざかっていって……――。



























 意識が、急に覚醒した。




 その目の前に、緑の瞳を携えた男が見えた。ふっさふさの筆みたいな睫毛がしぱしぱと震えた。先程は冷たい色をしていた瞳が、今は穏やかに見えた。



 賢誠の額に手を当てて、見下ろしていた。





天使さん!






 男は、もっと大きな目を見開いてぎょっとしながら身を引いた。


 もう少しだけ反応が遅れれば賢誠が頭突きを食らわしていただろう。


 しかし、我に返った男はむすぅと眉間にシワを寄せた。






目が覚めたなら、帰りなさい。
家は、分かるよね

……ここは何処ですか?

僕の家だ。君が、この迷いの森に迷いこんで倒れた。覚えてる?





真っ赤なゼリーに襲われました!

魑魅魍魎ね。あと、天使とか呼ばないで。気持ち悪い









 魑魅魍魎とは小物妖怪の総称だったはずだが……ーーそんな疑念も、彼の人を拒絶するように冷たく言われて賢誠は怯んだ。



 でもあの時、本当に綺麗だった。あんまりにも綺麗だったから、助かったと分かると心の底から安堵したのだ。



 布団の上にぽいっと投げられた赤い塊。











 それはさっき、ゼリーの怪物……――魑魅魍魎と呼ばれるモノの体内から落ちてきた塊だ。



 これは何なんだろうと小首を傾げる。




君、これを取りに来たんでしょう。
バカな子供。

魑魅魍魎のことも知らないでこの森に入ってくるなんて、親の顔が見たい。
さぞ毎日お金に嘆いてたんだろうね

違います!

河童にケツを掘られそうになったんです!






 その美麗なお顔には『はぁ?』と書いてある。


 意味が分からないのは当たり前かと瞬時に判断した。この異世界には河童も普通に現存しているのだ。河童がまさか、人間の下着を剥ぎ取る野蛮極まりない妖怪だったなんて賢誠だって知らなかった。




違うよ。尻子魂は人間の体内に存在する。それを取られると人間は死んでしまうんだ

そんな架空の臓器ないですよ!

それにさっき、河童に尻子魂なんてないでしょって言ったら、ボクの履いてるパンツのことを差して尻子魂って言ったんですよ!?

パンツを持っていこうとしたんです!!

河童は、変態だったんですよ!!








 すると、男はしばし目を瞬かせると、ようやく理解して顔をそらしながら、ぷっと噴き出した。その肩が小刻みに震えだした。



 コイツ、バカにしてるな!? と、分かった賢誠はあの時の恐怖ったらないと叫んだ。





アイツ、ボクのパンツを寄越せって叫んで追いかけてきたんですよ!?

ボクがパンツを死守するのに全精力を注いだか!

足も痛かったし、小枝に引っ掛かって痛かったし!

でも、パンツ剥かれたらケツ掘られると思うと怖かったんです!!


しかも、あの河童嬉しそうに追いかけてくるんです!

もう、嬉々としてボクのパンツ寄越せって!

あの河童がボクのパンツを求めて追いかけてくるあの興奮した顔にどれだけ戦慄したか!!

あっはっはっはっはっ!

ダメだ! もうダメだ!!








 今まで笑いを我慢していた男は、ついに腹を抱えて笑い出した。突然、脚力が抜けたように膝をつき、ベッドにもたれ掛かって全身を使って男は笑う。大きく上下に揺れて、ひぃひぃ人の不幸を笑い飛ばす男に天罰が下る。途端にむせたように大きな咳を何度もしたのだ。




 今度は苦しげに踞る。しかし、落ち着いてその綺麗な顔をあげると、また彼は盛大に笑い出した。





 賢誠だって黙っていられない。


 笑い事じゃない、怖かったんだ! と叫んで、男に掴みかかっていた。




 笑いすぎて顔の筋肉が痛いとか腹筋が痛いとか、男はそんな言葉を途切れ途切れに発する。笑いすぎて酸素欠乏に陥っているのだ。人の不幸を大爆笑するからである。彼は、床に横転しても笑うのを止めなかった。しまいには死ぬ、と呟きながら笑うことは止めなかった。それなら笑うのを止めろー! と賢誠は叫んで彼の胸倉を掴みあげて揺すった。




 男は一頻り笑い終えると、今度はしばらく酸素補給のために動かない。



 しかし、その顔はご満悦。何度も大きく呼吸を繰り返して、ようやく息を整えた彼は優しい微笑を携えて賢誠を抱えあげると、ベッドに座らせた。ふんわりと身体が沈んだ。






河童と会ったんだね。
あの子は人を驚かせる練習をしていたんだ。君を見つけて、驚かそうと思ったんだろう。

尻子魂の件は君の言う通りだ。人間にはそんな臓器は存在しない……――誰から、教えてもらったの?

本。遠野物語っていう本だったはず






 男は、小首を傾げた。


 そんな本があるのか、と眉間にシワを寄せた。
 ちなみに嘘だった。この話は読み漁っていたライトノベルに記載されていた情報だ。それが引っ掛かったのだ。ライトノベルという単語を発することが、何となく躊躇われた。



 それよりも、今、この男が言ったことの方が賢誠には気になった。






驚かす練習? なんで?

ほら、可愛かったでしょう?

他の河童連中から、河童らしくないと言われて、人を驚かせる練習をしてたんだ。尻子魂を抜くと死ぬと言うのは嘘だからね。


でも、化け物がそう言ったら、そう信じるのが人間だ……――て、そんな難しい話は分からないね

ゲームでとあるキャラクターが言ってました。

それは、自分の理解が及ばないから……――単純な無理解だって。

自分が知らないものは怖いっていう

……げーむ、という本なのかい?

ゲームはゲームですよ。テレビゲームです

てれびげーむ……








 男が、眉をガッチリしかめた。


 知らないうちに外の世界は進化したのか、と呟く。
 何をいっているんだろうか、と思ったが、よくよく考えるとこれは賢誠の前世の記憶だった。前世の記憶をそのまま話したって分からない……――訳がない。





この世界に、ゲームないんですか?

少なくとも、僕は聞いたこと無いかな。

そんな本の題名は

本じゃないんだけど……――そうか。

娯楽系統は未発達なのか……







 よくよく考えると、今までただのお子様だった賢誠は何も分からないまま生きていた。


 異世界であることや、家のことしか分からない。自分がどこに住んでいるのかもサッパリ分かっていない。





あの、ここって何処ですか?

僕の家だ
さっきもそう言ったと思うけど

いえ、地名? そう、地名です。

日本という国の、どこの都道府県ですか?

にほん……――とどうふけん?








 男はまた小首を傾げた。


 賢誠は、自分の頭の中の思い込みに気づいた。




 天之御中主神やら、日本語が通じること、河童だって見たのだから日本だと思っていた。もしかしたら、異世界では日本とよく似た場所なのかもしれない。そう、例えばヨーロッパのような世界観の物語にはアジア……――特に、日本や中国みたいな国の文化を『東国』みたいに表現する。もしかしたら、そんなところにやって来たのかもしれない……。






そーぉ思うと、

チョーお、ワクワクしてきた。




ここ! 何て言う国ですか!?








 男は目を瞬かせて、ふと外を見た。
















 大きな窓の外はもう暗い。窓の外に見える川は家の明かりが届かず、墨汁を流したかのように真っ黒だ。



 男は穏やかに賢誠へ微笑みかけた。











もう、遅いね。
今日は、泊まっていきなさい

はい! お邪魔します!








 賢誠は万歳してお願いする。


 その姿に男は楽しそうに微笑んだ。



 最初は追い帰そうとしていたが、今はそうでもなくなったらしい。





 今がチャンスだ。色々聞いてみよう……ーーそんな時に、ぐぅう、と腹が鳴った。気づけばずっと食べていないのだ。




 腹の虫を聞いた男はくすっと小さく笑い、二人分もあったかな、と楽しげに呟いた。





 男が歩くと、途端に世界は踊り出す。


 奥の台所に入ると、調理道具が一斉に動き出したのだ。




 時代はかなり古いのか石窯でお米を炊く気らしい。だが、窯の下に次々と木材が入り込み、ふわーっと浮いた紙片の側で、火付け石がカチンカチンと互いを叩きあう。紙片に火がつけば、ひゅーっと窯の中へ入っていった。




 横の扉を開けた男の後ろに使い古されたまな板がフワフワと浮かぶと、その上に男はニンジンや玉ねぎをおいていく。すると、コロコロする野菜が動き回って、まな板が泡食ったようにその野菜達を落とさないよう左右にバタバタ揺れた。



 男がそれに気づいたように、指をつい、と動かすと、ニンジンが台所へ飛翔した。そこで待ち構えていた包丁が刃を光らせ、手際よくニンジンの皮を剥いていった。




うぉおお! すごい! すごい! 何て魔法!?

君、名前は何ていうの?

山本賢誠って言います! お兄さんは!?







 この時、賢誠は気づかなかった。



 前世の名前をそのまま名乗ってしまっていたことに。そして、こんなショボい間違いが持石にとって後々、運命を変えることにもなる。



 持石は、お兄さんか、と物憂げに呟いて。





僕は持石太陽だよ

太陽さん、すごーい!






 台所に飛び込む賢誠。



 肩を竦めた持石と名乗った男に、椅子に座って待っているように言われる。


 その間、賢誠は目の前の調理器具達の奏でる美味しい音をバックグラウンドミュージックに持石と話し込む。彼は何もしなくても、生きた調理器具が勝手にやってくれた。




 あっという間に、一汁一菜の質素なご飯が出来上がる。


 二人は手を合わせて、頭を下げる。





いただきます

いただきます!

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