甘い!








 木刀を薙いだ賢誠の背後に回り込んだ刀弥が、その背を打ち付けてきた。


 賢誠の身体は軽く、いとも容易く吹っ飛ばされる。

 目が醒めて賢誠は現状を再確認した。

 この四歳児の兄……――刀弥の元、河原で剣の修行中だった。



 癖毛の短い髪の毛が無造作に跳ねている兄は現在、家計を火の車に追い込んでいる張本人。貴族が通う武術学校で日々、修行している。



 つい最近、父親が死んだ。



 刀弥は兄なりに軟弱な弟を鍛えようと本日も学校から帰ってくるなり、暗くなるまでこんな感じだ。身体は戦いの経験があり何度かこういう動きがくるなら次はこう、という瞬間的な判断で攻撃をしたり、受け止めたりができる。


 それでも、その小ささと体力の少なさは小さい賢誠を限界へ追い込む。





立て、賢誠!








 刀弥が木刀を降り下ろして、睨んでいた。


 感情を圧し殺しているかのように見える。決して、冷酷ではない。





 驚いたことに、転生しても名字が違うだけで名前は全く同じだった。完全に当て字なのに、読み方さえも。




 父親が死んだから、それでこの家を引っ張っていかなくてはいけないと兄なりに男である賢誠を一人前に育てるべく、今から剣の修行をつけている、と言ったところだ。




 赤石家は、平民のお家。


 老師とか教師とかはいらっしゃらない。





立てと言っている!!








 心臓がぐわし、と掴まれるような一喝にビビった賢誠は思考を止めた。



 今は余計なことを考えている時間がないと、ようやく思い至る。






 とりあえず、刀弥が満足するまでは相手をしなければいけない。剣術を磨かねば刀弥も解放してくれない。



 茜色にぼんやり染まっている、砂利に手をついて重たい身体を起こす。腕がブルブル震えている。使い慣れていない筋肉を使っているからか、引きつっている。












 剣を交えれば相手がどんな人間か分かると戦国時代系の漫画でも言っていたけれど、その理由をなんとなく賢誠も目で見て肌で実感する。





 賢誠が身体を起こそうとする度に、夕日の光を映す瞳が苦しげな色を秘めて歪んでいる。







 振り落とされる一刀一刀が、無駄に重たい。



 一撃一撃がそんな重たいと次の攻撃に移れないだろうと思う。




 これは、倒れると分かっているときに打ち込める大きな一撃だ。本当の戦闘であれば敵を死へ追いやる一刀。




 賢誠が倒れると分かっているから、大きな一撃を打ち込むのだ。



 そして、さっきから賢誠を立ち上がるまで、それを待つ。





 ――厳しいけれど、とっても優しい人だ。




 倒れたその先に、誰かが折って放り投げたらしい枝が転がっていた。







 賢誠はそれを掴んで握る。



 ざりっ、と重たい木刀を地面に突き刺して、支えに立ち上がる。


 自分とほぼ同じぐらいの大きさの木刀。


 重くて、使いにくい。





 賢誠は、身体を持ち上げる。
 ガタガタ笑っている二本の足で、ようやく立ち上がる。
 立ち上がって、その木刀から手を離す。

枝なんぞ握って何のつもりだ。木刀を握れ

使いにくい

そんな小枝では練習にならん

なら、今度はボクのサイズに合った木刀を買ってきて。これは重いし長くて使いにくい








 刀弥が眉間にシワを寄せる。



 黄昏時に染まる閑静な川縁。少し上の方には、整備された道があって、そこを歩いている人達がチラホラ眺めている。






 賢誠は逆手に握って、大きく一歩踏み出した。じゃりじゃりと踏みしめ刀弥の懐にもぐり込む直前、砂利を思いっきり蹴りあげる。



 しかし、刀弥はとくに驚きも示さず飛び散った石を木刀ではたき落とした。






 その間隙を突いて攻撃範囲内にもぐり込む。



 逆手に握って横凪ぎに振るうべく賢誠の手元を狙って木刀を薙いだ。



 賢誠が振るえば、予想交流点を見越しての小手打ちだったが、賢誠の手は構えたまま動かない。






 賢誠は、一歩踏み込む。



 その向かってくる木刀の動きから、目をそらさず、貪欲に前へ前へとその足は歩みを止めなかった。


 屈んでかわし、髪の毛を撫でるように頭上を横切る木刀の軌跡をかわして懐に潜り込んだ。







 枝を握った腕を引き付ける。通りすぎると同時に、枝先が刀弥の首の側面を撫でて賢誠は通り抜けた。



 じゃり、と砂利を踏みならす音が小川に轟く。






戦場でこれが小刀であれば勝負有りです









 振り払っていた木刀を、刀弥はゆっくり戻した。





あぁ。その通りだな。よくやった








 振り返った刀弥は、夕暮れ時の橙を浴びて笑んでいた。



 その首筋に枝に引っ掛かれたらしい、うっすら赤い線が引かれていた。






 とりあえず、満足していただけたようだ。


 よかったぁ……――その安堵が、賢誠の脚力を一気に引っこ抜いた。ぐらっと、視界が傾いた。




 転ぶと分かり、体勢を建て直そうにも上手くいかず、横に……――川の中に身を投じるように転んでしまった。





 水の中に身体が落ちて、全ての音がくぐもっていた。水中という空間に、刀弥の驚いた声も鈍く聞こえてくる……――。



 そんな水中の中で、賢誠は目を瞬かせた。


 頭に、つるんとした白い皿。そこから生えている緑色の髪の毛に、鳥の黄色いくちばしをのっぺりと飛ばしたような口を持った、緑の肌の生き物……ーー。


 つぶらな瞳と、目があって。





 数秒後。


河童ぁああぁぁああ!?

ぎゃあああああああ!!







 水中で、賢誠と河童の絶叫の大合唱。



 しかも河童の方が顔を真っ青にして超ビックリした顔していた。化け物を目の前にして恐怖したような様だった。





 賢誠は肺に留まっていた空気を気泡として全て吐き出してしまい、陸上生命体である人間は一気に窒息へ追いやられた。



 まずい、と思ったものの浮上しようにも両腕、両足にも力が入らず足掻くこと叶わない。今までしこたましごかれたせいだ。





 あわてふためいている河童だったが、川へ新たな闖入者が現れた。空気を含んだ水が気泡となって上昇していく。



 その中から微かに、刀弥の姿が見えた。





 お兄ちゃん、ヘルプ! そう思って、手を伸ばしたモノの、着物の首根っこがぐい! と引っ張られて急速に景色が遠ざかっていった。かなりの勢いで流されている……――。





 否……――河童に、川の底に引きずり込まれていた。




 すでに肺の中に酸素は残っていない。


 その状態で水中に長居するとなればどうなるか……――無論、溺死するしかない。















 意識が、ブツリと途絶えた。







































 意識が浮上して、背中が痛いと思って目を覚ました。









 木々に挟まれている場所……ーーよくよく辺りを見回すと、河原だ。山を削り、蛇行して流れてきた石の堆積した場所。




 かぁ、かぁ、とお山に帰ったカラスが寂しげに鳴いていた。



 茜色の空は藍色の布団を被ったようにグラデーションがかかっていた。もうすぐ、夜になる。


 夜の森は危険だ。肉食動物ほど夜に活動する。
 そんな危機感が肌を舐めた。水に濡れたままで寒いというのもあるが、それに加えて身が震えた。





 とりあえず、夜になる前に森を抜けねば……――そんな思案もざっぱぁん! と川から突如現れた音に吹っ飛んだ。



 川から勢いよく飛び出してきたのは、さっき賢誠を引っ張っていった河童だ。


 つぶらな瞳がキューティーな河童様である。






オイラは河童だ!

え? あ、はい。それが何か?







 すると、河童は何故かびくぅ! と体を大きく揺らした。



 なぜだ。なぜか、賢誠の方が怖がられているように思える。



 河童は両腕をあげ、目をつり上げるとまたこう言った。






オイラは河童だ!

はい。それが?

ぎょえ!?







 河童が驚愕したように口をあんぐり開けて驚いた。


 なぜ、驚いた?




 賢誠はこの河童が驚いた理由の方が分からない。



 ちょっとあわてふためいたが、腰に手を当てた河童様は冷や汗を垂らして続ける。





お前の尻子魂を引っこ抜いてやる!

どうだ、怖いだろう!

……尻子魂って人間の尻にあるっていう架空の臓器ですよね

かくう?








 逆に首を傾げられたんだが、どうすれば良いのだ。



 河童だし、家族じゃないから前世の記憶が持ち合わせている情報を披露しても良いかと賢誠は結論付けた。






 架空とは、偽り。


 つまり、無い。


 本当は無い臓器ということだ。



 河童はこれが好きで相撲をとった相手から引っこ抜くと伝承で伝えられている。尻子魂を抜かれるとその人間は死ぬ……――そこまで説明して、河童はまた緑色の胸を張った。







その通りだ! 死にたくなかったら逃げるが良い!

いや、だから。

その尻子魂は人間の中にないの知ってるでしょ、河童なんだから







 すると、河童はまたびくぅうう! と身体を震わせた。



 何だこの河童。殴られたいのか。殴ってやろうか。


 しかしこの河童はある! 尻子魂はあるぞ! と訴えて諦める気が無いようだった。



 河童は賢誠を前にして、何かを閃いたように柏手を打った。





お前、今、尻子魂をつけているだろう!

つけてないよ

オイラは知っているぞ!

その着物の中に白い布を履いているのを!

それが尻子魂だ!









 白い布を履いている。



 そんなもの履いてな……――そこで、賢誠はちょっと待て、と思った。




 確かに白い布を履いている。


 下着だ。パンツは履いている。






 賢誠は、沈黙した。


 そして、思考した。


 至った答えは、ヤバイものだった。




 河童は相撲をとった人間の下着を剥ぎ取って逝かせる。

















 つまり、負けた人間のケツをほる……――。




 血の気が全力で引いていった。




うわぁああああーーーー!?






 危機感が全力で賢誠の残りの体力を捻出させる。足が何度か持っていかれそうになったが、恐怖が全力で賢誠を応援する。



 しかし、河童は何故か、もんのすごく嬉しそうに頬を紅潮させて。



待てぇ!






 と、追いかけてきた。



ふざけんなぁ! 待てるか、変態!!

ちがぁーう! オイラは河童だぁあー!

近づいてくんな河童ぁあああーー!!

尻子魂よこせぇーえ!







 途中で小枝に引っ掛かって転んだが、それどころではない。


 河童に取っ捕まったあとの方がヤバイ。ヤバすぎる。




 異世界に転生したらしいのに、お尻が窮地過ぎる。
 楽しげに追いかけてきた河童。数分ほど逃げていたが、途端に河童が声をあらげて賢誠に呼び掛けてきた。




待て! 人の子! そっちは行っちゃダメだ!

お前のところに行った方がヤベェんだよ!!

ケツが!!

そっちには大型の魑魅魍魎が……――

ぎゃあああー!







 今まで追いかけて来ていた河童は両手をあげて叫ぶと、急遽、くるりと背を全力疾走していった。瞬く間に緑色の生物は緑の叢の中に溶けるように消えていった。




 とりあえず、危機は去ったようだ……――そんな安堵もそれまでだった。





 メキメキメキ、と木の繊維が断裂する音が真正面から聞こえてきて、賢誠は前へ向き直った。



 暗闇の中に浮かぶ真っ赤な巨大生物だった。



 その身体はゼリーのように透き通っており、中央には一際赤く輝く光がある。それは、何となく犬のような形をしていた。巨大な犬のゼリーを作ってみたが、上手く顔を造形できなかったかのようだ。それか、子供が下手な犬の絵を描いたような。耳の大きさは揃っていない。尾も、犬にしてはひょろ長い。






 全身から、一瞬にして沸き上がった寒気が賢誠の中で警鐘を鳴らす。



 逃げろ、と騒ぐ。



 しかし、こんな時に脚は力を失って動かなかった。地面にぺたんと尻を落として、動けない。







 じぃ、と見下ろされる。


 じわじわと脂汗が全身から出てきた、心臓が異様に跳ねて血液を全身へと巡らせた。耳元まで心臓が回ってきたかのように、ドクンドクンと聞こえてくるぐらい。湿って重たい森の空気が鼻孔を潜り抜けた。





 ふん、と鼻息を吹き出す。


 犬の鼻から、ぼぉお、と炎が吹き出した。


 まるで炎が身体の中に溜まっているかのようだ。






 大型動物が、口を開ける。


 そこから、熱風が吹き荒れ賢誠の髪と身体を舐めた。獣臭さはなかった。ゼリー状の生命体から放たれたそれは、純粋な熱気だった。



 逃げないと、と足を動かそうとすると、今まで散々痛めつけて走っていた足がズキズキと痛みだした。逃げるのは無理だ、と瞬時に脳が判断した。


 ゼリーの喉の奥から炎が渦巻いたのが見えた。


 こんなにも熱いのに、とある単語が頭を過って腹の底から賢誠は冷えきった。






頭、下げて









 突然聞こえてきたその声に、バカみたいに従った。
 賢誠は頭を抱えて濡れた地面に顔を厭わず突っこんだ。



 だけど、ちょっと気になって顔を上げた……――その途端だった。



 頭上を何か、濃密なエネルギーが通過していく。それに髪の毛がなぶられ、びゅおん、と全身を撫で付けて通過した。




 それは、先端が尖った風だった。緑色の光を纏い、ぐるぐるとドリルのように高速回転して目の前のゼリー状の生物の顔面へ突き刺さった。

 ゼリーの顔を抉るようにその回転に巻き込んで、胴体を突き抜けていく。

 身体の一部を丸く抉り取られたその生命体は、ぱこん! と、何だか間抜けな音と共に、熱気が霧散した。



 賢誠は再び森の寒さに全身を包まれる。
 宙に浮かんでいた光が、ぼとんと地に落ちた。それは薄暗い森にほんの僅かに淡い赤が光を放っていたが、力を失ったようにしん、と輝きを失った。











 あれは、何だったのだろうか……――ただ、この空間は妙に居心地が良くなったように思えた。





森を出なさい





 静かな声に弾かれたように賢誠の身体は振り向いた。




 そうして、目を奪われる。



・・・・・・。







 金糸のような長い髪の毛をだらんとだらしなく垂らしている。寝起きなのか、少々髪の毛はボサボサだ。その瞳はあまりにも綺麗なエメラルドグリーンだった。



 まるで、宝石をその目に埋め込んだかのように綺麗だった。顔の作りも端正で非の打ち所がない。人形師が愛を込めて等身大の金髪人形を作ったかのような、綺麗な人だった。




 体力が消耗した身体の中に怠さを一気に拡散させる。



 それは賢誠の全身を汚染するかのような眠気だった。全身を鉛のように重くして、起こしたばかりの身体が前に倒れて……――。

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