どのくらいその場に立ち尽くしていただろう。

気付けは夜の帳は下りていた。明かりもついていない白井の部屋では、二人の姿も闇の中に溶けている。

白井 空

何だよ……

やがて、ぽつりと呟いた白井の声が、静寂を切り裂いて途端に溢れ出す。

白井 空

運命からは逃げられないってなんだよ!? こっち向いてくれよ! 昨日気持ちを確かめ合ったばかりだろ? なのに、どうして……どうしてこんなに遠くに感じるんだよ――

清少納言

すまない。空、本当にすまない。だから、サヨナラしよう

白井 空

なあおい。いきなりそれはないよ。だって、だってそんな。それじゃ俺は、何も納得できないじゃないか

清少納言

お前のことは好きだ。大好きだった本よりも、もっともっと大好きだ。だから昨日、お前に改めて気持ちを伝えられて、本当に嬉しかった。この人と一緒にずっと幸せに過ごそうと決めたんだ。だからさ、それが駄目だったんだよ

白井 空

駄目って、何が?

清少納言

私は生まれ変わっても、たとえこの時代に転生したとしても、あくまで私は清少納言だ。そして、清少納言はこの時代では『枕草子』を書いた女性作家という認識が強い。千冬に聞いたよ。お前も以前は、私の本を愛読してくれていたんだってな。つまりな、私は作家、それはもう曲げられない決定された事実なんだよ

白井 空

それが、運命だって、逃れられない運命だっていうのか?

清少納言

ああ。そうだ。そして私は、昨日お前とともに生きることを、作家の道を目指すのを辞めた瞬間に、身体が消え始めた。今も、この通りだ

白井 空

そんな。いやでも、それでも何か方法があるはずだ。物語を書かなくても消えない方法が何か――

清少納言

違うんだよ空

白井 空

違うって何がだよ!? もう方法はないってあきらめるのか!?

清少納言

いいや、そうじゃない。気付いたんだ。何とか消えないように、形だけでも何か書けば、消えてしまうのを止められるかもしれないと思って紙に文字を書いたらさ。分かってしまったんだよ

白井 空

分かったって、何が?

清少納言

私はさ、空。運命とか、既に決まった歴史とか、そんなものは関係なく、やっぱり物語を書くのが好きだ。作家になりたいって、どうしても思ってしまうんだよ

白井 空

そう……か

清少納言

ああ。これは私の、私だけの夢だ。運命に決められたものでもない、この時代に生きる、この私が選んだ夢なんだ!! だから、私はたとえ消えてしまおうとも、最後の一瞬までこの気持ちに正直に生きたい!

白井 空

分かったよ。陰ながら、応援してる。だからなぎも、頑張れ。ここは自由に使っていい。俺は別の所で寝るから

清少納言

すまないな空。ありがとう

白井 空

ああ。じゃあな

清少納言

またな。空、私はお前のことが大好きだぞ!

彼女のその声に白井が応えることはなかった。

二人は別々の夜を過ごして、そして長い一日が明けていく。

* * *

3月16日、木曜日。

白井が目を覚ました時、朝はまだ早くこのアパートの誰一人他に起きている者はいなかった。

異様すぎる静けさが、今の白井にはありがたかった。

のそのそとした動きで自分の部屋の前まで歩き、止まる。

しばらくはただボーっと立ち尽くしていた。そうしながら、無意識に部屋の中の音を聞き逃しまいと耳を澄ませていた。

何も聞こえないことに寂しさを感じながら、ゆっくりと扉を開く。

白井の目に映ったのは、原稿用紙の束に突っ伏したまま眠り込んだ、清少納言の横顔。

しかし白井の気配に目を覚ますと、いつもの笑顔で目を擦りながら彼女は言った。

清少納言

おお空。おはよう。今日も学校とやらに行くのか?

その笑顔が溜まらなく愛おしくて、やっぱり自分は彼女のことが好きだと実感して。白井は無我夢中で部屋の中に足を踏み出し、

がさりと。足元にあった原稿用紙の束を倒してしまった。

慌ててしゃがみ込んで拾い集め、そうして顔を上げる。

窓の向こうで上り始めた太陽の光が窓から差し込んで、彼女の好きなピンクのシーツに変えたベッドを照らしていた。

彼女の姿は、もうどこにもない。

白井 空

……

溢れ出る涙を気にも留めず、ただただその様子を見つめていた。

しばらくして、そっと手に取った原稿用紙に目をやる。







 

一枚目には、彼女の綺麗な文字でそれだけ書いてあった。

紙をめくる。

い に  
お ち 私
菓 ょ の
子 こ 好
を れ き
く い な
れ と 人
ま と は
し い 、
た う 初
。 甘 め
 く て
て 会
美 っ
味 た
し 時
   

書かれていたのは、凪という主人公の女の子が、空という男の子と出会い、恋をする物語。

色々な挫折やぶつかり合いを経て、最後には二人は幸せに結ばれる、ハッピーエンドの物語。

白井 空

やっぱり。やっぱり物語なんて書き手の勝手な妄想じゃないか。決して実現しない、創り物の世界じゃないか

だけど、そこには確かに一人の少女の純粋な願いがあった。

だけど、そこには確かに一人の少女の素直な気持ちが込められていた。

最後の最後の一枚。その一枚に辿り着いて、白井はようやく声を上げた。

め 私 私
な の は
い 願 夢
で い を
。 。 諦
そ ど め
れ う な
が か か
私 私 っ
の の た
最 好 。
後 き こ
の な れ
願 人 が
い も 、
で 、 私
す 夢 の
。 を 夢
諦 。
    

白井 空

馬鹿野郎。ほんと、馬鹿野郎だよお前は……なぎ、どうして――どうしていなくなったんっだよ

声を上げて、泣いて。それでも、彼はペンを持って紙に向かった。

大好きな人の、最後の願いを叶えるために。

〔八〕悲しみ奏するこそ、あれど

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