【第9章:迫りくる白】


















































……寒



足下に萎びた草が無数に生えている。

頬を撫でていく風が
ひやりと冷たい。


空を見上げても雲しか見えない。








こんなところにいたのか。行くぞ



白いネズミが駆けてくる。

数年前にあの山を越えて来て以来、
群れに居ついている男だ。

行く? どこへ?

聞いていなかったのか?
じき、このあたりにも「白」が来る。だから暖かい場所へ移動するって言っただろう





そう言えば
ここ数日、大人たちが集まって
なにやら相談をしていた。


空から鳥がいなくなったのも
虫や動物を見なくなったのも

このあたり一帯が
寒くなってきたからだ、と。

















それは「白」が近づいている証拠。


白ネズミが
ここに辿り着いたのも
山の向こうが「白」に覆われてしまった
からであるらしい。


























寒さで草が枯れ



それを餌にする小動物が
新たな食料を求めて移動する。



そしてその小動物を追って
肉食獣や猛禽類も移動していく。






少し前までは
白ネズミ以外にも
そうやって山の向こうから来た
動物たちが多くいたが、



今は影も形もない。



見ろ



彼が顎をしゃくった先には
半分ほど白く染まった山があった。

あの山も数日前までは
青々としていたのに……

白い



前にもどこかで
あんな「白」を見た気がする。

「白」に取り囲まれて
動けなくなってしまった覚えがある。






大切なものを、

……

どうした?

……いえ……




その大切なものが
なにかもわからないのに

ただ、
「失くした」という焦りだけが
体の中で渦巻いている。

























……

大事なものがあるなら、余計にこんなところでまごついているわけにはいかないな。
命がなけりゃ、見つけ出すことだってできやしない



山の向こうでは「白」のせいで
多くの動物たちが死んでしまった。

白ネズミの兄弟たちの多くも
「白」に捕まって息絶えたと聞く。

生きていれば、いつか、その大事なやつが何だったか思い出すさ

ほら、みんな移動してしまったから、狼たちも腹を減らしてる。
単独行動は命取りだぞ



白ネズミはそう言い残すと
仲間たちのいるほうへ踵を返した。


























……









空が青い。

この空を
誰かと見上げた覚えがある。





「大事なもの」というのは

その「誰か」の
ことだったのだろうか。




































わからない。































最近、吹くようになったこの風は
あの山からやって来る。

「白」の匂いが――





考えごとをしていたからなのか、
鳥が近づいていたことに
気づかなかった。





その鳥は
山のように白くて
山のように大きくて

ひとつ羽ばたくたびに
冷たい風が巻き上がった。














僕は走った。
でも鳥も追いかけて来る。

鋭い鉤爪が、何度も背をかする。

あっ!


足がもつれた。
背中に鋭い痛みが走った。



























生きていれば、いつか、その大事なやつが何だったか思い出すさ






僕は




「幸せになってもらいたいよ」


誰……?



「誰でもなく」


まだ、大事なものを……見つけ、て、な……

















「きみ に――」











































……ここは?



目を覚ますと
見知らぬ穴の中にいた。







鳥はいない。













こんなに暗いのに
日が射していた外よりずっと暖かい。


まるで
幼い頃、兄弟たちと身を寄せ合って
眠った時のような……


気がついたか

狼!



鳥から脱したと思ったら
すぐ目の前に狼がいた。






暖かいと思ったのは
この狼のせいだったのか?

後ずさろうにも
恐怖で足が動かない。

案ずるな。食いはしない



狼はそう言うが、
そんな台詞がどこまで信じられ……

!!



狼をよく見れば

背中やら脇腹やらに
いくつもの大きな傷があった。

そのせいで灰色の毛並みが
所々赤黒い。







さっきの鳥にやられたのだろうか。
























なぜ?
餌(僕)の奪い合いで?



















でもこの狼は
「食べない」と言った。

食べないのに
どうしてこんな怪我をしてまで
奪う必要があったのだろう。





……さあな。身体が勝手に動いちまったんだろうよ

少し前にネズミの群れが谷を下って行った。
お前も行くなら行け。
じき、ここも「白」に埋まる



狼はそう呟くと
丸まって目を閉じてしまった。


赤黒い傷痕が痛々しい。

……





























食べるつもりがないのに、

……



鳥から奪ったものの

深手を負って
食べる必要がなくなったから
逃がしてくれるのだろうか。


……狼、さん?



返事はない。



























『私は、護衛です』


























……誰……?




誰のものかもわからない声は
耳を澄ましても
もう、聞こえなかった。











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