ワタルは突然の出来事を前に硬直していた。見知らぬ男は一直線に冷蔵庫に向かっていた。そしておもむろに冷蔵庫を開けた。
ワタルは突然の出来事を前に硬直していた。見知らぬ男は一直線に冷蔵庫に向かっていた。そしておもむろに冷蔵庫を開けた。
発泡酒しかねぇ。
人様の冷蔵庫を開け、まじまじと確認。そしてその文句を付けた発泡酒と、朝ごはん用であろうハムも手に取った。
そんな事を思っているワタルは、母に助けを求めるように視線を移す。
ぎゃははは。
くっそつまんねー。
ップ! ッハハハハハ!
風呂掃除を息子に任せた母は、毎週欠かさず見ているお笑い番組に爆笑している。全く男に気付いていないようだ。
…………
!!
男が無言で爆笑している母のソファーに体を向ける。危険を感じたワタルは恐怖心を無理やり抑え込み、一歩踏み出した。
ふぅ~
母の横に無造作に座った男は、缶を開け、一気に発泡酒を傾けた。驚く事に、母はまだ爆笑していた。
相変わらず、
くそつまんねー番組
好きだな。
今、いいとこなんだから、
黙ってな、って、
プッハッハッハッハ!
くっそつまんねー!
ゲラゲラゲラ。
どういう事?
母ちゃん、この人、誰?
ウッキャッキャッキャ!
ん?
母はようやく我に返った。そしてワタルに話す。
もう風呂掃除終わったのかい?
いや違うって、
その隣の人誰?
ん?
母は自分の隣を確認すると、男が居る事に驚いてみせた。が、すぐに平常心に戻って、口を開いた。
誰ってツナジーじゃん。
あんた知ってんでしょ?
いや、知るわけないだろ。
まだワタルが3、4歳の頃だぞ。
そうだっけ?
小学くらいじゃなかった?
なんだ知り合いかぁ。
全然知らないし覚えてないよ。
どうやら、母の旧友らしい。この後、二人共の記憶が曖昧なのと酒の酔いが掛け合わさり、昔話はさらに混濁としていった。
一時間話した後で、確かな情報は二つ。
○男のあだ名はツナジーで母の小学校からの旧友。
○十年ほど日本を離れていたらしい。
それだけ。後の情報は二人の記憶がバラバラでどれが正しい情報かは不明だった。
で、何用?
金はないよ。
俺もねぇし、
シズにねぇのも知ってる。
久々に顔見に来ただけだよ。
アタシには酒を飲みに
来たようにしかみえないけどねぇ。
発泡酒なんざ酒じゃねぇ!
って、昔、言ってたぞ。
つまんねぇ事、覚えてるねぇ。
ギャッハッハッハ。
ワタルは何でもないそのやりとりを聞き、二人の仲の良さを感じている。友人というだけで、勝手に家に上がり込み、冷蔵庫を開ける。親しい仲にも礼儀ありなんて言うが、どちらの態度や言葉もそれを置き去りにしているようだ。
二人は凄く仲いいんだね。
そうか?
普通だろ。
普通じゃないよ。
凄く仲良さそうだもん。
腐れ縁って言うんだよ、
こういうのは。
あー、それだ。
それがしっくりくるな、腐れ縁。
お前の父ちゃんもそうだった。
三人ともガキの頃からの
腐れ縁ってやつだ。
え!?
父ちゃんの事も知ってるんだ。
そりゃあな。悪ガキ三人一緒に
育ったみたいなもんだな。
まぁ、色々あったね。
父の事を思い出してか、母は少し神妙な顔付きになった。そして今まで聞いた事のない父の話を、ツナジーは語り出した。
書道教室墨まみれ事件や、
水道管同時破裂事件。
俺の自宅を半焼させたあの時。
どの時も三人一緒だったな。
とんでもない事件ばかり
みたいだね。
銀行強盗犯追跡事件や、
宇宙人確保事件。
高校受験なんかもあったな。
無茶苦茶じゃん。
って、高校受験は普通でしょ。
どこ行くにも三人一緒だったよ。
悪さするのも怒鳴られんのも。
ガキの頃の話は盛り上がるな。
今でもガキだろうが。
お互い様だけどな。
で、父ちゃんと結婚したんだね。
腐れ縁のなれの果てだ。
それだけ言って、母は缶を逆さまにした。中の発泡酒は僅かしか残っておらず、大きなゴミ袋にすぐに捨てられた。よく喋る二人だが、深夜の静けさを呼び起こしたような沈黙がリビングに広がった。
別れてから分かったんだ……。
…………
…………
アイツとの腐れ縁は、
結婚しなけりゃ
切れない縁だったんだってね。
母の言葉はいつもと違って、重く感じた。子供の頃からの深い縁は、お互いの人生に深く影響を与えた事だろう。それを断ち切った二人の人間。その複雑な気持ちを、ワタルは感覚ではなく言葉で少しだけ理解した。
不思議なもんだよ。
腐れ縁のアイツと
絶縁してからは、
見える景色がガランと
変わったようだった。
大袈裟に聞こえるだろうけど
……生まれ変わった。
そんな風に思ったもんさ。
10年前から女手一つでワタルを育ててきた。そんな母の、素直な感覚。
知った風に良いとか悪いとか
言うつもりはないけど、
縁ってやつは
人を変えるもんだよ。
母の言葉がワタルの芯に絡みついた。
母の人生を少し聞かされ、自分の中のモヤモヤが随分小さく思えてきた。それが晴れるような気になったが、その前にワタルは眠りについた。