啓太

あと四分経ったら仕事するか……

パソコンの右隅の、18:26という表記を一瞥して、俺はぼんやりとそう思った。残業をする場合、社内規定で十八時から十八時半は休憩時間と定められており、十九時に退社しても残業代は三十分しかつかない。残業が少しであればそんなの無視して早く上がれるよう頑張るのだが、今日のように長くかかりそうなときは、十八時からきっかり三十分、何もせずに体を休めることにしていた。

パソコンの画面上には、何のアプリも立ち上がっていない。壁紙の上に二十個ほどのアイコンが浮いているだけだ。壁紙はネットで拾った猫画像にしている。気品のあるメインクーンがじっとこちらを見つめている。

啓太

メインクーンいいな。
こんなに大きい上に毛がもっふもふだなんて。
さぞかし抱き心地が良いのだろう

ずっしりと重量感あるその巨体を抱き上げて、毛足の長い毛皮に顔をうずめたい。ひなたぼっこばかりしている猫は、お日様のにおいがすると聞く。
だが実際には、俺はあまり猫と触れ合う機会がない。仕事の帰りが遅くなることも多いので家では飼えないし、猫の扱い方を知らないので道端で野良猫に会っても避けられる。結果猫と触れ合うことができないのだ。

沙耶子

……というわけで、PHPチームがこれからしばらく忙しくなりそうなんですよ。
女性陣全員で企画してた懇親会も参加できそうにないので……

二つほど離れた机の方から、何やら話し声が聞こえてくる。この声は、PHPチームの端山さんだ。
PHPチームというのはうちの会社内で、開発言語として主にPHPを用いるチームの俗称だ。同じ開発部であっても俺らC#チームとは割と疎遠だ。

チーム同士は疎遠なのだが、彼女の今いる机の持ち主、C#チームの一ノ瀬桃花とは仲が良い。
というか、うちの会社の女性陣はチームどころか部署が違う人も含めて全員仲が良い。ように見える。
小さな会社なので女性が全部で六人しかいないから、団結しないとなにかと不便なのかもしれない。

沙耶子

はい。それじゃあ、
よろしくお願いしますね。

話が終わったらしく、端山さんは一ノ瀬の席の横を離れた。自分の席へと帰っていく途中で俺の席の後ろを通り抜け……ふと足を止めた。

沙耶子

あ、真庭さん、
猫がお好きなんですか?

彼女の視線は、僕のパソコンの画面に注がれていた。
より正確には、僕のパソコンの壁紙である猫の写真の、実物よりやや大きなメインクーンの顔、その宝石のような両目に注がれていた。
『お好きなんですか?』は愚問だろう。猫が好きでない人間がわざわざ猫画像を壁紙にするわけがない。しかも起きている時間の過半を向き合って過ごす、仕事用パソコンの壁紙にだ。

僕がうなずくと、彼女はなにやら財布の中をごそごそやって、小さな紙片を取り出した。

沙耶子

これ、私の良く行く猫カフェの割引券なんですけど、私は忙しくて期限内に行けそうにないので、よろしかったらどうぞ

紙片には「猫カフェ みけのしっぽ 一〇%割引」と書かれている。みけのしっぽという店名には見覚えがある。会社から最寄り駅へ向かう途中の大通り沿いにある雑居ビルの5Fに、そんな看板がでていた。
毎日その横を通って通勤しているが、実際に店を訪れたことはない。

啓太

猫カフェ……
男一人では行きづらいんだけど

俺のその言葉に、彼女はちょっとだけ不機嫌な顔をした。

沙耶子

男性ばかり三・四人連れのお客さんは良く来てますよ。男一人では確かに珍しいですが、岩見さんでも社外の友達でも誘って行けばいいじゃないですか

石見というのはC#チームの一員で、僕の二年後輩だ。別に猫好きではないようだがそれ以外はなにかと俺と馬が合い、人付き合いの少ない俺にしては、珍しく仲の良いと言える同僚の一人だ。
でもそういう事じゃなく、端山さんには言外の意味を察してほしかった。

啓太

いや、あの……。
行きづらいから端山さんも一緒に行ってほしいなーって意味で言ったんだけど

端山さんの表情がますます険しくなる。
彼女にしてみれば、俺が『一人で行きづらい』と言った時点でこういう誘いが来ることを予期して表情を曇らせたのだろう。そこに予想にたがわず誘いをかけたものだから、不快感を隠しきれなかったわけだ。

沙耶子

話聞いてなかったんですか?

沙耶子

私は、『忙しくて行けそうにない』って言ったんですけど

啓太

あ、いや、ごめん。
そうだったね。あはは……

これは、忙しくて行けないのに誘われたから怒ってるんであって、俺に誘われるのが不快だからじゃないよな?
たのむ、そうであってくれ。

端山沙耶子は俺からみると四年後輩にあたる。新人研修のときは多少、技術指導なんかでかかわる事もあったけど、別々のチームになってからはほとんど話していない。

新人研修の時の彼女に対する俺の印象は、『頭のいい子だな』だった。こちらは教えるプロじゃないから、説明や指示が言葉足らずだったりわかりにくかったりするのだが、彼女は的確にこちらの意図を汲み、理解してくれる。

あと印象に残っていることとしては、再帰呼び出しについて教えた時に、伏し目がちに俺が用意した紙の資料を読む彼女の顔を見るともなく眺めながら、まつ毛の長い子だな、と思ったのを覚えている。つまりは仕事の面でも容姿に関しても、どちらかというと良い印象を持っている。だからこそ猫カフェに誘ってみたんだが……。

まあともかくこんな風に、「会社の後輩と猫カフェデート」の夢は儚くも敗れ去ったわけだけど、とりあえず割引券はもらっておいた。男一人では入りにくいけどしょうがない。

今はとりあえず、片付けなければいけない仕事があるのだ。もう六時半は過ぎている。割引券を渡して用は済んだとばかりに立ち去る端山さんを尻目に、俺は仕事を開始した。

結局その日は、十時近くになってようやく退社できた。明日も遅くなるかもしれないが、今週中にはどうにかけりがつくだろう。そうしたら土日のどちらかに猫カフェに行くのも悪くない。

……

駅へと歩く道すがら、闇に溶け込むように路地裏にたたずむ黒猫を見つけた。

啓太

黒猫は人懐こい子が多いから……。
ワンチャンあるかも……

ゆっくりと、猫との距離を詰める。
かがめば手が届くかも、という距離まで近づいて、ゆっくりと膝を折る。

(ぷいっ)

黒猫に向かって少し手を伸ばしかけた瞬間、猫は走り去ってしまった。

啓太

ダメだった……

俺は路地裏にしゃがみこんだまま、はーあ、と大きくため息をついた。

沙耶子

何をやってるんですか?
犯罪か何かですか?

しばらくそのまましゃがんでいると、そんな声をかけられた。どうやら端山さんも今帰りらしい。
会社の先輩が道端にしゃがみこんでいるのを見て、気分が悪いのかと心配するより前に『犯罪か何か』だと疑うのはいかがなものかと思う。

でもそれよりも何よりも、俺の目は彼女の腕に抱っこされて、生あくびをしている物体にくぎ付けになった。

……

啓太

そ、その猫!
俺は触らせてももらえないのにどうして端山さんは抱っこまでできるんだ!

沙耶子

知りませんよ。
真庭さんの邪悪な人格を猫が見抜いたんじゃないですか

猫に対する俺の食いつきぶりに若干引き気味になりながら、端山さんが答える。

啓太

そうかー。
邪悪でなければ……。
俺が邪悪でさえなければ猫を抱っこできるのに……

しゃがんだまま落ち込んでいると、端山さんも膝を折って目線を合わせてきた。

沙耶子

冗談ですよ。私の家は昔から猫を飼っているんで、猫の扱いに慣れてるんですよ。
抱っこさせてあげますから真庭さんも猫の扱いを練習したらいいんじゃないですか?

そう言って彼女は、黒猫をそっとこちらへ差し出す。

啓太

……え?

沙耶子

話聞いてなかったんですか?
ほら、抱っこしてください

言われるままに、彼女から猫を受け取る。

沙耶子

そう、右腕は前足の下に。
左腕でお尻の方も支えてあげてください

彼女の言う通りに、優しく猫を抱っこする。

……

受け取った時にはちょっと不安そうな表情を見せた猫も、ちゃんと安定するように抱っこしてあげると、安心したように目を閉じた。

啓太

やっぱりいいな猫は。
丸っこい顔。かわいらしい手。それにスエードのような柔らかな肌触り。
その全てで、猫は癒しを与えてくれる。

本当に猫を抱っこしていると、残業の疲れが吹き飛んでいくような気がする。時の経つのを忘れて、そのままずっと抱っこしていたいような。

そう、俺はごく短い間ではあるが、時の経つのを忘れていたのだろう。今が夜のけっこう遅い時間であること、視界の悪い夜の闇の中、寝不足な運転手の乗った暴走トラックが、裏路地に突っ込んできたりしかねないことを、俺はこの時忘れていた。

沙耶子

!?
真庭さん危ない!!

端山さんがそう叫んだのと、突然目もくらむばかりのライトに照らされたのはほぼ同時だった。
気付いた時には、トラックは俺の目の前に迫っていた。避ける暇もなくその巨大な鉄塊はどんどん視野を占領していき……。

そして、それ以降の記憶は、ない。

(続く)

猫は癒しを与えてくれる

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