不思議そうな声。千早の母だろうか。当然だ。こんな朝、しかも平日にいきなり男が訪ねてきて不思議でないことがない。追い返されてもおかしくない状況で、怒っていない声色なのが救いだった。
はい、どちらさまでしょうか?
あ、朝早くにすみません。俺、堂本、千早さんのクラスメイトで
クラスメイト?
不思議そうな声。千早の母だろうか。当然だ。こんな朝、しかも平日にいきなり男が訪ねてきて不思議でないことがない。追い返されてもおかしくない状況で、怒っていない声色なのが救いだった。
あ、はい。神代って言います
神代くん
向こう側で千早の母が大翔の名前を繰り返す。
神代くん!?
さらにその後ろ側から今度は千早の大声が大翔の耳に届いた。
インターホン越しにバタバタと慌しい足音が鳴り、それが聞こえなくなると閉まった塀の向こう側で引き戸が開く音がする。カラコロと下駄の歯が石の上を走る音が大翔の方へと近づいてきて、大翔の背丈を優に越える大きな杉の門が開かれた。
どうしたの、神代くん!
あ、あぁ、おはよう
門の隙間から顔を出した千早は大翔の顔を見て叫んだ。昨日は学校を欠席していたし、昨夜の一件で相当悪くなっているだろうと思っていた大翔は千早のあまりの元気さに困惑してしまう。
思ったより、元気そうだな
え?
いや、無事ならいいんだけどさ
無事を通り越して元気すぎる。大翔の方がよっぽど心身ともにボロボロな気分だ。もしかすると昨夜に見た千早は見間違いか本当に夢の中だけの存在だったのかと思えてくる。
あ、昨日休んだから? まだ本調子じゃないけど、今日は目覚めも良かったし、もう少しかな
目覚めが良かった?
あ、ううん。なんでもないの
目覚めが良かった? あの夢を見て? 大翔はもう何がなんだかわからなくなってくる。真っ暗闇の体育倉庫に隠れ、その扉を破って襲ってきた怪物たちに殺される寸前で逃れるように目を覚ましていったいどこが気持ちよく起きられるだろうかと思う。
そっか、ならいいんだけど。携帯繋がらないし
あ、昨日つけたまま寝落ちしちゃって。今充電中
あはは、と照れたように千早は苦笑いを浮かべた。
でもそれだけでわざわざ家まで来てくれたの?
いや、なんていうか、今朝は変な夢見ちまって
それって、変な怪物に襲われて、体育倉庫に隠れる夢?
何気なく聞いた千早の言葉に、大翔は動揺を隠して口元を結んだ。やっぱり、という声が漏れそうになったのをすんでのところで飲み下す。
カベサーダのことを知らないのなら、わざわざ不安にさせることはない。嘘をつくことに少しだけ罪悪感を覚えながら、大翔は笑った顔を作って答えた。
あぁ、そんな感じだった
そうなんだ
驚いた表情に嘘の雰囲気は微塵もない。千早はいつからあの夢の世界に落とされてしまったのだろうか。昨夜初めてあの世界に誘われたか、誰とも協力せずにあそこに隠れていたのか、大翔のように誰かを犠牲にして生き残ったのか。
聞きたいことはいくらでもあるが、大翔はぐっと堪えて微笑んだ顔を守った。
それにしても、その様子だと今日も休みみたいだな
え?
玄関先で嬉しそうに話していた千早は大翔のことをまじまじと見た後に、自分の姿を確認する。
セミロングの髪は寝癖がついたままであちらこちらに跳ね回ってまとまらない。服装はひよこ柄の上下のパジャマ。春から夏に変わりつつある季節とはいえ、少し肌寒くないかと心配になる薄着だ。ついでに言えば、足元は一番早く履けそうだったのか、千早の足より二回りは大きな男物の下駄。兄弟がいるという話は聞かないから祖父か父親のものだろう。まったくもって色気の欠片もない。
あ、えっと。最近ちょっと寝ても疲れが取れない感じがして
ぼんやりしているのは大翔の専売特許だと思っていたが、こうして見ると千早もなかなかに抜けているところがある。
でも今日はちょっと大丈夫な気がしてきたし、明日にはきっと学校にも行けるよ
他人事のような言い方が少しだけ大翔のに不安をもたらした。千早がどれほどの時間あの夢の世界にいて、どれほどの恐怖を見てきたのかは大翔にはわからない。ただ目の前にいる千早が、いつも大翔を勇気づけるために真面目な顔をして教科書で大翔の頭を叩く彼女が、疲れた顔で無理をして笑っていることだけは理解できた。
わかった
え、何が?
絶対に俺がなんとかしてやるから。もうちょっとゆっくり休んでな
どういうこと?
きょとんとして首を傾げた千早は大翔の真意は少しも伝わっていないようだった。だが、それでいい。
じゃ、俺は学校行くから。また体調崩すなよ
あ、うん
手を振る千早に大翔は恥ずかしそうに小さく手を振り返して、学校に向かって走り出した。
正義のヒーローにはきっとなれない。だが、千早を助けてやるのに何もヒーローになる必要もない。
特殊なスーツも、専用の武器も、華麗な必殺技もいらない。
泥臭く、ボロボロになりながらでもなんとかしてやる。それが大翔のできる数少ない恩返しの選択だった。