校舎に入り、左右に伸びる廊下で四人は立ち止まった。廊下の端までは五〇メートルほどだが、左側の先には気が遠くなるほど果てしない道が続いている。右側はまだ道の領域。何が出てもおかしくはない。
どうするんじゃ? 戦える数とちゃうぞ
どこかに逃げ込むしかないだろう
モールへの道は塞がってたんだよね?
校舎に入り、左右に伸びる廊下で四人は立ち止まった。廊下の端までは五〇メートルほどだが、左側の先には気が遠くなるほど果てしない道が続いている。右側はまだ道の領域。何が出てもおかしくはない。
どこか隠れられる場所はないか? 頑丈な扉がついているような
そんな都合のいいものが
焦りが募る中で、ふらついたままの大翔が右へと指を差した。
……体育倉庫
大翔の中学で一番固い扉となればたぶん体育倉庫だ。体育館の隣に置かれたそれは大翔が入学する前は不良の溜まり場になっていて、タバコの不始末から火事になる騒ぎがあった。そして建てなおされた倉庫はコンクリートの冷たい壁に過剰すぎて厳重すぎる堅牢な扉で囲まれて、生徒の間では宝物庫とあだなされるほどのものになった。
その目立ちすぎる場所を大翔はまだこの夢の中で見ていない。この夢の主が大翔と同じ中学校の出身だとしたらあの倉庫のことを忘れられるはずがない。どこも似たようなものだと言った校舎の中で唯一どこにもない大翔たちの中学校を表すものなのだから。
わかった。行こう
今まで通ってきた道にはそれらしいものは見当たらなかった。もちろん全て確認したわけではないし、空間も構造も捻じ曲がったこの夢の世界では教室の扉を開ければ体育倉庫、という可能性もあった。
四人にとってはこの行動すら賭けだ。だが、今さらそんなことを言うつもりは誰もなかった。この世界で生き残るのに確実だったことなどない。
おりゃ、もうちょい気張れ
ぐいと引き上げられた大翔はまだ片腕を尊臣に引かれながら、無言で足を動かした。
大翔にはまったく確信がなかったが、グラウンドまでの道のりが長かったせいか、目的の体育倉庫はすぐに見つかった。頑丈さを誇示するように傷一つない扉はこの世界にあって歪みはなくすんなりと開いてくれた。
これで、あとどのくらい耐えればいいのか
扉を閉めて落ちていた南京錠を内側からしっかりとかける。そこまできてようやく四人はその場にへたり込んだ。
足元を照らすように通気のための格子がかかった小さな窓から光が漏れている。大きなかごに入ったサッカーボールやテニスのラケット、野球用のグローブ。この中もまた現実とまったく同じ。荒らされていないようだ。
あの時と似ているな、と大翔は思った。
三年の春。和弘がケガをする少しだけ前の話だ。大翔はこの体育倉庫に閉じ込められたことがある。
マンガみたいなことは意外なことに現実でも起こったりするものだ。
日直だから、という体育教師の思いつきで授業の後片付けに指名された大翔は、扉から陰になるところに落ちたボールを拾おうとあれこれとやっていた。そこをろくに中を確認しなかった体育教師に外から扉を閉められて、鍵までかけられたのだ。
不良の一件で強固にできた倉庫から出る手段はなく、完全に閉じ込められてしまったのだ。幸いにも次の時間にも体育の授業があったおかげで中にいたのは十分足らずで済んだのだが。
そのとき一緒に閉じ込められたのが、もう一人の日直。堂本千早だった。
閉じ込められた時の反応は今思い出しても笑いがこみ上げるほどだ。
大翔から一番距離が離れるように対角線に陣取り、剣道のように用具室のラケットを構えたまま微動だにしなかった。
こっちに一歩でも近付いたら叩くからね
はいはい、わかったわかった
密室の体育倉庫。情事を想像するのは少し古臭すぎるというものだ。いったいあの真面目な千早がどこからそんなオヤジくさいシチュエーションを仕入れてきたのかは大翔も未だにわかっていない。
倉庫に限らず閉じ込められた人間の頭の中に浮かぶのは生への欲求だけだ。
いつ助けが来るのか、どうすれば出られるか、長く生き永らえる術はあるか。
思考は現世にしがみつくための方策を求めて果てない知識の海を行くだけだ。同じく閉じ込められた女生徒などせいぜい最終手段として食糧になるかというくらいのものだろう。もっとも体育倉庫に閉じ込められたくらいでそんなことは考えもしないのだが。
結局大翔はぎゃあぎゃあと喚き散らす千早から一番遠いところで体力を極力使わないようにじっと座って動かないままだった。
それに安心したのか、それとも恐怖の対象が大翔から体育倉庫そのものに移っていったのか。千早は少しずつ大翔との距離を縮めて、大翔が座っていた千早から一番遠い場所、高飛び用のマットを半分にたたんで重ねた一番上に上がってきた。
次の授業の準備に来た体育教師が倉庫の鍵を開け、笑い半分で謝る頃には千早は大翔の隣に並んで座って震えていた。
大翔が千早を気にかけるようになったのは、あの時からだ。おそらく逆もそうだったのだろう。そうして一年が過ぎて、今も二人の関係性は変わっていない。
確かあの辺りだ。大翔が千早と並んで、今と同じく薄暗い倉庫の中で助けを待ちながら小さく体を寄せ合っていたのは。
背中を預けていた扉が大きく鳴って、大翔の体に衝撃が走った。それを追いかけるように続けざまに衝撃が鳴り響く。
来たようだな
僕らにできることは祈るだけだよ
扉を引いて開けることはおそらくできないだろう。教室の扉すら真正面から叩いて壊そうとしていた場面を大翔は見ている。しかし、大翔はカベサーダはアルミシャッターに大穴を開けて通ってくるところも見たことがあった。安心など少しもできない。この扉の方が頑丈だと信じているが、それもどれほど持つのかわかったものではない。
きゃっ
何度目かの衝突音のときだった。少女らしい可愛らしい悲鳴が上がる。三人は驚いた顔で乃愛の方を見た。明るければその意外そうな顔に怒った乃愛に一撃見舞われていたことだろうが、幸いよく見えていないようだった。
何だ、私じゃないぞ
でも他にあんな声の人はいないし
他に誰かいるのか、俺たち以外に
そう言いながら薄暗い庫内をゆっくりと見渡した。大翔には聞き覚えのある声だった。
扉を叩く音は次第に大きくなっていく。外側がへこみはじめて音が大きくなってきているのかと思うと冷や汗が滲んだ。
激しい雷雨のようなとめどなく続く轟音の中でさっきの悲鳴はもう聞こえようもない。隣に座っている尊臣や光さえも何かを言っているのかいないのかはっきりしなかった。
たぶん、さっきのは
暗闇と打撃音で視覚と聴覚を奪われてなお、大翔はゆっくりと立ち上がった。
もしも、大翔の耳が正常であるならば、きっとあの声の主はあの場所にいるはずだ。
立ち上がると同時にくらりと視界が揺れた。目覚める直前のサインだった。同じような感覚がしたのだろう。他の三人にも安堵の雰囲気が漂った。しかし大翔は一人だけもう少しだけ夢が覚めないでいて欲しいと強く念じる。
高飛び用のマットが重なった上。あの時と同じように小さく体を丸めて両手で耳を塞いでいる。足元から漏れるわずかな光もこの場所には届かない。それでも大翔にはもうここにいる少女の顔が浮かんでくるようだった。
堂本
耳元で声をかけてみるが、この音の中では聞こえていない。
後ろでふと人の気配が消えた。誰かが目を覚ましてこの夢の世界から脱出したのだろう。それに続いて、一人、また一人と消えていく。恐らくここにはもう大翔と千早しか残っていない。
堂本
もう一度呼びかけてみるが、千早はただ首を振って嫌がるように身をうごめかせるだけだった。
一際大きな音ともに大丈夫だと思っていた扉がついに破られる。暗闇に慣れた目に光が差し込んで視界が眩んだ。
きゃああ!
入ってきた光に反応して千早が悲鳴を上げた。
堂本!
もう一度強く呼びかける。
あれ、神代くん?
両目に涙を浮かべながらも千早は少し嬉しそうに顔を上げた。やっぱりそうか。後ろからなだれ込んできたカベサーダが大翔の肩に手をかけようとするが、大翔の体に触れることはできない。
ぐるりと歪んだ世界の中心でどこか嬉しそうに微笑んだ千早もまた、揺らめくように世界から消えていった。