さて、絶望的だよ

尊臣

一匹でも多く倒すくらいかのう

 不気味に微笑んだ尊臣の顔にはもう諦めの色が滲んでいた。

 カベサーダは大翔たちに復讐を狙っている。そう言った男たちは大翔たちを残してグラウンドをゆっくりと周回するように逃げることにした。カベサーダから距離を取りながら、音を立てずにすれ違うことができれば、逃げ切れると考えたのだろう。

 擦れればたちまち音が鳴る白土のグラウンドをまるで薄氷の上を歩くように一歩一歩進んでいく。

 その動きがあってもなお、カベサーダたちは動かなかった。ただ真っ直ぐに大翔たちの方へ向かって行進を続けている。

本当に仇討ちだと思うかい?

 すっきりしたような声で光が聞いた。死ぬ前に少し雑談でもしようか、という清々しい声だった。

乃愛

奴らにそんな脳があるのか?

尊臣

そうは思わんのじゃがなぁ

 近付いて来たカベサーダの黒い塊から、特徴的な赤い眼光が見えるようになってきた。ずいぶんと近い。いつもなら迷いなくこちらに襲いかかって来る頃だ。

 もしも、カベサーダたちが仇討ちしたいと思っているのなら、大翔にはその気持ちはよくわかる。自分もさっきそんな気持ちで武器を振るい、触角を折ったのだから。だからこそ、今目の前できっちりと列を組み、真綿で首を絞めるように少しずつ距離を詰めるカベサーダの集団に違和感を覚えていた。

 復讐というのはそんなに生易しいものではない。

 全身が赤く燃え盛るように熱を発して、頭の中が敵の顔だけになり、視界に映る仇の顔以外の全てがまるで夢のように歪んで見えるのだ。

 その命を絶つその瞬間まで目標以外は眼中にない。それは自分の体も例外ではない。皮が剥がれ、肉を切り、骨を断とうとも命をもぎ取る。それが復讐という言葉が持つ魔力だった。

 大翔は確信した。あれは自分たちを狙っているわけではない。あれは何か外側から枠にはめられて強制されているものの動きだ。

 それなら何かその強制をとってしまえれば。

 強制に抗えるもの。それは残念なことに本能に忠実すぎる欲望だけだ。人間ならば食欲や睡眠欲。それから反射。どんなに禁止されたとしても抗うことのできない生きるために備えられた防衛本能。

 何かないか。奴らにはめられた鎖を一瞬でも解き放つ方法は。

 大翔の頭の中を思考が駆け回っていく。知っているカベサーダの行動を一枚ずつページをめくるように思い出していく。

 最初に襲われたときに消したのは音だった。

 今までも音につられて奴らはやってきたのだ。

 手元には、武器として持ってきた細い角材がある。

大翔

これをどこかに

 投げつければ、と大翔が顔を上げたとき、大きな風が吹いた。

 つむじ風を上げ、白土を巻き上げながら大風がグラウンドを縦断する。校庭で校長先生の長い無駄話を何年も聞いていれば、何度かは巡り合う嫌な現象だ。ただ緊迫したこの状況に突如起こった風は想像以上の混乱を巻き起こした。

 砂埃は大翔たちの視界を奪う。ざらざらと服にまとわりついた砂は服に擦れて小さな音をいくつも立てた。

 カベサーダの動きが止まった。大翔たちの方を向いていることには変わりない。一斉に動きを止めたせいで今度は銅像のように同じ姿勢で立ち止まったカベサーダ相手に恐怖は少しも薄れなかった。

大翔

やっぱり音か

 目の周りに舞った砂を払って、大翔が周囲を確認する。立ち止まったカベサーダの体が次第に小刻みに震えはじめる。

 抗っている。何かからの強制に音の方へ飛びかかりたいという本能が抗っている。

 もう一手。手元にあるものを遠くに投げて、それがぶつかって大きな音を出せば。

 砂が収まった瞬間に大翔は尊臣たちの方を見た。策は浮かんだ。分の悪い賭けでも何もしないより何倍もマシだ。

今だー! 逃げろー!

 大翔が搾り出そうとした提案は遠くから聞こえた大声にかき消される。

 カベサーダの動きが止まったことを見た集団の中の一人が、まだ目を閉じている仲間達に向かって叫んだのだ。

 その声を聞いて、誰よりも早く動いたのは他でもないカベサーダだった。

 砂煙を巻き上げて、十五匹の恐怖が一斉に走り出した。今までの歩みはただのかく乱だったと言われても納得できる変わり身だった。

 濁流のような足音を聞いて大翔が振り返った時には、もう既に叫んだ男の喉笛にカベサーダの噛みついているところだった。

 悲鳴が上がる。大翔を見て何かを叫ぶ。両手を振り回して抵抗する。

 たった数メートル先で繰り広げられる地獄絵図。大翔は胃から逆流してくる動揺を漏らすまいと両手で口を塞ぐ。

逃げよう

 いつのまにか近づいて来ていた光が大翔の肩を叩いて耳うちをした。

 襲われている人たちを助ける術はおそらくない。あの中に近付いたところで巻き添えを食うだけだ。この瞬間にもグラウンドには血だまりができ、混じり合って大きさを増してきている。大翔にはもう力なく頷くことしかできなかった。

 尊臣に支えられながら、大翔は一年振りにこのグラウンドを走った。今後ろにいるのは倒しても簡単には倒れてくれない捕食者だけだ。近くにいる獲物を全て食らい尽くした後は大翔たちを本能のままに追ってくるに違いない。

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