太陽というものは全ての人々を平等に照らさねばならない。
ただひとりを寵愛し、そのモノのみを暖かく包み込んで良いというものではないのだ。
余は太陽。太陽は余。
祖国キリアサンタがこの太陽によって照らされるのであれば、それは生きた太陽として崇拝される対象になる。
余こそ太陽。太陽こそ余。
故に誰かを愛したり誰かを憎んだりしてはいけないのだ。影を作ってはいけない。影を見てはいけない。
猊下は「贄」といった。余はそうは思わない。キリアサンタ、そしてリレイドフェルデンの平和を照らす太陽と成し得るのだから。
余は、太陽。太陽は、余。
太陽の名前を与えられた余こそが太陽たらん、と父上が、そして太陽の名に連なる我らが一族が猊下に言われたことが始まりだったのだ。言われてどのくらいの歳を経たのか、猊下も、まして神ももう覚えてますまい。
我ら一族が太陽であると誰かが決めた。だから太陽であると自負できる。
余こそ、太陽。太陽こそ、余。