乃愛

貴様ぁ!

とりあえず落ち着いて、拳を開いて、僕らの話を聞いていただけますか?

 光は掌で一つだけ空いている大翔の向かいのパイプ椅子を示した。乃愛は不審そうに大翔たちの顔を睨みつけながら、しかし人質代わりの自分の名前をバラされたくはないらしく言われたとおりに席に着く。

 そんなに強く睨まれても大翔は何もできないし、事情すら完全には飲み込めていないのだからやめてほしいところだ。

乃愛

それで、貴様らの要求はなんだ?

 可愛すぎる名前からは想像もつかないほどの気迫を込めて、乃愛が大翔を見据えて言い放った。さっきからずっと今すぐこの場から離れたいと大翔は願っているのだが、蛇に睨まれた蛙と同じく、乃愛に睨まれた大翔は動けない。

 ついでに言えば、さっきから何か言え、といわんばかりに光が大翔の脇腹を肘で小突いている。昨日の礼を言おうとした続きをしろ、ということなのだろうが、この状況で簡単にそんなことが言えるなら、悩む必要もない。さっき頼りないなんて思ったバチでも当たっただろうかと大翔は苦笑いを浮かべた。

大翔

えっと、昨日、夢の中で、会いましたよね?

 途切れ途切れの声で大翔が言葉を搾り出す。頭の中はめちゃくちゃに荒らされていて、言葉を選ぶ余裕もない。

乃愛

貴様は何を言っている?

 そうなれば当然のように伝わるものも伝わらない。このように哀れみすら含む蔑みの眼で睨み返されるだけだ。

大翔

あ、えっと、だから昨日夢の中でカベサーダ、怪物に襲われているところを助けてもらって

乃愛

怪物。確かにそんな夢を見たが、貴様、何故私の夢の内容を知っている!

 乃愛の視線が今度は光に向く。自分の名前が知られているのと同じように何か探られたと思っているようだ。大翔の説明にもならない説明は状況を悪化させているだけだが、とにかく自分から乃愛の視線が逸れて大翔はほっと胸を撫で下ろした。

まぁ、そんなに怒らないで。どうですか、僕らの顔に見覚えは?

 大翔はあんなにもビビって声も絶え絶えだったというのに、光は落ち着いた声で乃愛に質問を返す。

 乃愛は薄く微笑む光の顔に眼光を鋭くしながらも大翔と光の顔をじっと見つめて顔をしかめた。

乃愛

確かに、私の記憶と貴様らの顔は一致する。しかし、私は貴様らと会うのは初めてのはずだ。その夢の中というのを除いては

あぁ、説明すると長くなるのですが

 光はそう前置きして今大翔たちが直面している事態について説明した。カベサーダのこと、夢の中で複数人の意識が混在していること、そして夢の中で死んだ人間が現実世界でも死んでいること。

 乃愛が途中で怒り出さないかと大翔はハラハラしながら事のなりゆきを見守っていたが、乃愛は光の話を遮ることなく黙って聞いていた。

乃愛

にわかには信じがたいが、確かに私が見ている夢と酷似している

 光の話を聞き終えて、乃愛は率直な感想を漏らした。普通に聞けばただの妄言か何かの勧誘と思われるのが関の山だ。

 ただ乃愛の場合は実際に体験しているはずだ。あの恐怖が渦を巻いて自分たちを飲み込もうとしてくるあの夢の世界を。

大翔

先輩はあの夢のことおかしいと思わなかったんですか?

乃愛

怪物に襲われる夢など見慣れている。たいていは膝を入れれば倒れていく

 おいおい、と男三人は乾いた笑いを漏らす。こちらは三人がかりで逃げ惑いながらなんとか生き延びた。見捨てたと言っていい人間だっている。それをこの自分たちより幼くすら見える先輩は飄々と生き延びてきたのだ。

尊臣

ワシが殴っても平気な奴じゃぞ

大翔

それを、膝って

 自分たちとは違う夢を見ていたのではないか、と大翔は疑いたくなった。だが、昨夜廊下に追い込まれた大翔と光に襲い掛かるカベサーダを乃愛が膝の一撃で仕留めたのを大翔は確かに見た。夢の世界にいながら、あれほど夢のようだと思ったこともない。

の、仁坊先輩は気鋭の女子キック選手だからね

尊臣

自分はほんまにどこから情報を仕入れとるんじゃ

僕は別に違法なことをしてるわけじゃないよ。知っているのは誰でも調べれば手に入る情報だけさ

 不審な目で大翔たちは光を見つめてみるが、光はその仕入れ先を話すつもりはないらしい。

大翔

それにしたってなんで奴は先輩の膝だけで簡単に倒れたんだ?

尊臣

そうじゃな。格闘家じゃろうがワシが武器持ってぶん殴るより強いってこたなかろう

 大翔が見たときも乃愛の一撃に気だの剄だのと呼ばれるような不思議な力は見当たらなかった。不意打ちではあったものの、跳躍力を乗せたムエタイ式の膝蹴りがカベサーダの顎を捉えていただけだったはずだ。

 顎が弱点だった可能性は十分ある。人間だって顎を強く撃たれれば脳が揺らされて倒れるし、顎の骨は比較的細く折れやすいにもかかわらず頭に流れる重要な血管が多い場所でもある。しかし、カベサーダが倒れたときを思い出しても顎から地や体液が出ていたということはなかった。

僕にもそれがわからなかったんでね。こうして調べてお呼びたてさせてもらったってわけだよ

乃愛

そうは言っても、私は普段と何も変わったことはしていないが

 男二人を相手に勝っている怪物を見て怖気づくことなく攻撃を加える日常ってなんだろう、と大翔は頭を抱えたくなる。果たし状だと思ってこの部室に来て男三人相手にひるむことなく睨みを利かせて入ってくるぐらいだから、乃愛の言葉に嘘はないのだろう。

大翔

じゃあ実際に再現してみるとか?

 ふと思いついたままを大翔は特に考えもなしに言い出した。大翔としては当然の流れと思って言ったはずだったのだが、聞いていた他の三人は目を丸くして大翔の顔を見ていた。

じゃあ、君に頼んだよ

 光はまた大翔の脇腹をつついて小さく頭を下げた。その様子にはまったく誠意が感じられない。むしろ楽しそうにからかっているような風さえある。

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