夢だ。ここは夢の中だ。

 大翔は自分の立っている場所を確認する。中学校のグラウンド。頭の中を空っぽにしてバカみたいに走り続けたライン。ただの白土の上に石灰で引いただけの曲がったラインを大翔はよく覚えている。

大翔

寝ちまったか

 あれほど居眠りはしまいと心に決めていたというのに。少しの油断が疲れた大翔をここに連れ込んだ。ここから先は一人だ。尊臣も光もいない。

 どうしたものか、と大翔は周囲を見渡して、いつもの夢と雰囲気が違うことに気がついた。

 妙に空が晴れやかで空気が重くない。遠くを見渡しても蜃気楼が見えない。校舎の方を見ても荒れている様子はない。騒がしい声も聞こえない。

大翔

違う。ここは、どこだ?

 困惑する大翔の肩に誰かの手が置かれる。大翔は反射的に飛び退いて、その手の主の正体を確認した。

和弘

びっくりしすぎだろ、大翔

大翔

和、弘?

和弘

そうだよ。お前のライバル、片岡和弘だ。忘れたか?

 満面の笑みで答えた和弘に大翔は曖昧に笑顔を返した。忘れたことなど一度もない。ただもう今の和弘は大翔に向かってこんな顔をすることはできるのだろうか。

和弘

じゃ、練習始めようぜ

 走り去った和弘の背中を見送っても大翔はその場から動けなかった。

大翔

忘れるわけないだろ

 これは夢だ。正真正銘、大翔の夢の中だ。

 ここにカベサーダは存在しない。意識を持った他の人間も存在しない。ただ大翔にとって忘れられない光景が大翔の意思とは無関係に流れ出す場所。

大翔

なんで今さらこんな夢を見るんだよ

 天を仰いで大翔は大きな溜息をついた。もう見たくないと思っているはずなのに憎らしいほどの晴天が大翔を見下ろしていた。この先に起こることを大翔はよく知っている。しかし、それを回避する手段は存在しない。

 ここは大翔の記憶が作り出す夢。記憶とは過去。過ぎた時間は取り戻せない。

 自分の意思で自由に動ける夢の中でも夢から覚める方法だけは大翔も知らない。夢の続きを見るために重い足取りで陸上部の部室に向かった。

和弘

なんだ、呆けちまって

大翔

あぁ、悪いな

 着替える和弘の姿を大翔はぼんやりと見つめていた。よく野球部と間違えられる丸刈りの頭に短距離の選手らしいしっかりとした脚。言葉遣いとは逆に少しフケ顔なことを本人はよく気にしていた。体格だけでいえば、間違いなく大翔よりも才能があっただろう。

 大翔と和弘はいつも隣で競い合って、思春期の妙な主人公感も手伝ってお互いをこっそりとライバルなんて恥ずかしい呼び方をしていた。

和弘

今日で決着だな

大翔

あぁ、そうだな

 ロッカーの前に立つと、大翔の服は自然と中学の時に使っていたウェアに切り替わる。夢の中では当然のように起こるご都合主義な事実すら懐かしいと感じてしまう。あの悪夢の中では大翔にとって本当に都合のいいことはいつも起こらない。

和弘

タイムはずっと負けてるけど、ベストタイムならたったの〇、〇二秒差だ。それを今日はひっくり返してやる

 大翔と和弘の実力は本当に変わらなかった。むしろ大翔の方が遅いものだと思っていた。実際、大翔は練習中に隣で走っている和弘よりも自分が速いと思ったことは一度もない。

大翔

なぁ、和弘

和弘

なんだ?

大翔

いや、なんでもない

 今にして思えば、簡単な答えだった。

 和弘は練習中なら意識してきれいなフォームで走るが、いざ記録会となると気持ちが前に出てフォームを崩していることが多かった。だからタイムだって落ちるし、体に無理なところが生まれる。まして大翔をライバルだと認め、いつも少しだけ記録が上回っているのだから、なおさら体に力が入ってフォームが崩れる。

 悪循環だった。中学の陸上部顧問は専門的に陸上をやっていたわけじゃない。誰も和弘の小さな異変に気付かなかった。

 そして、三年の春。この夢は地方大会前の参考記録をとるという日だった。

位置について

 トラックに並んで、大翔と和弘がクラウチングスタートの構えをとる。大翔が隣を盗み見ると。和弘はもう気合に満ちた目でこれから走る先を睨んでいた。

 ピストルの音が鳴る。

 思い切り蹴りだして和弘が走り出す。大翔の体は動かずとも視界だけが勝手に記憶を辿って動き出した。

 四〇〇メートルのトラックコース。短距離走に分類される中では最も長い距離を求められるこの競技は、全力で走りながら持久力を必要とする過酷なレースだ。それだけに走者の負担は大きい。それが崩れたフォームで体力に任せて走っていたとしたらさらに危険は増してくる。

大翔

やめようぜ

 大翔が搾り出すように言う。だが、大翔の視界は止まらない。横目に見えていた和弘の姿が少しずつ後ろに下がり始める。和弘がそれを見て無理をしているのが今の大翔には見えずともわかった。

 ゴールが近付いてくる。もう視界には和弘の姿はない。後ろについてきている気配もない。大翔はラインを駆け抜ける。それと顧問がコースに向かって走っていくのは同時だった。

 大翔がその先に振り返る。ゴールまであと数メートルというところで和弘がうつぶせになって倒れている。駆け寄った顧問が和弘の脚を触って何かを確認しているようだった。

大翔

和弘!

 倒れた和弘に駆け寄ろうとするが、走りきったばかりのところですぐに止まった体は言うことを聞いてくれない。それでものろのろと一歩ずつ大翔は和弘に近付いて、隣に座り込んだ。

大翔

和弘

和弘

やっぱ勝てなかったな

 苦しそうにしかめた顔を無理やり口角を上げて和弘が漏らした。足首がひどく腫れている。ただの捻挫だとは思えない。

和弘

大会。俺の分まで頑張れよ

大翔

あぁ

 そんなプレッシャーのかけかたがあるか、と大翔は苦い顔に戻った和弘を顧問と二人で担ぎ上げた。

真由

こら、起きろ! 授業終わったよ

 容赦なく振り下ろされる丸めた教科書を立て続けに受けて、大翔は机の上から顔を上げた。

大翔

なんだ、堂本?

真由

千早は休みだっての。神代って本当に千早が大好きなんだから

大翔

そんなことねぇよ

 目を擦って今度は体を椅子の背に預ける。丸めた教科書で大翔の頭を叩いていたのは千早ではなく真由の方だった。

真由

先生も起こしてたのに諦めてたんだけど。どんだけ寝てないのよ

大翔

まぁちょっと最近な

真由

もう、千早がいないと本当に全然だめみたいね

 授業が終わってからも結構寝ていたらしく、教室では大翔の方を見てクラスメイトが大小さまざまな声で笑っている。ここでむやみに否定してもからかわれるだけだ、と大翔は押し黙った。

 大翔の態度を見ていた真由は満足気に大翔の席から離れていく。次の授業までの時間はあまり残っていない。

 和弘のケガはアキレス腱断裂という診断だった。字面だけなら非常に重いケガだったが全部が切れたわけではなく、高校に入ってからはまた陸上部に入って頑張っていると聞いた。あの日の一件で治らない傷を負ったのは大翔だけだった。

 他人にケガを負わせるというのは自分が傷つくよりも何倍も重い。誰かを置いていくくらいなら自分が取り残されたほうがいい。大翔にとってあの日はまさに現実に起きた初めての悪夢だった。

大翔

せっかく安心して眠れるなら、もっといい夢見せてくれよ

 自分の頭を二度叩いてみるが、返事があるはずもない。大翔は大きく伸びをして、次の授業に備えて頭を振った。

第二夜:慟哭の校庭ⅩⅠ

facebook twitter
pagetop