奴、カベサーダの足の爪が廊下を傷つけている。こちらに気付いて近付いているのか、それともただ徘徊しているだけなのか。

大翔

どうしよう?

ここから出るか、あるいは音を立てずにやり過ごすか

大翔

でも、見つかったら奴はこの扉くらい簡単に破ってきますよ

 防犯の役割を果たすアルミシャッターすら真ん中から破ってしまうカベサーダにはこの教室の窓ガラスや扉などスポンジケーキのようなものだ。

大翔

武器でもあれば時間が稼げるんですけど

 昨夜大翔が見舞ったライトスタンドの一撃もそれなりに効果があった。

 辺りに散らばったものはたくさんあるが、カベサーダの固すぎる表皮を少しでも痛めつけられるものはほとんどない。机や椅子では不意打ちするには大きすぎるし、箒や折れたハードルでは心許ない。

ないものをねだってもしょうがない。音を立てないように行こう

 非力な二人で近くにカベサーダの存在。それは焦りを生み、焦りは思考の停止を生む。

 まだカベサーダはこちらに気付いているかもわからないのだ。不用意な動きはいい結果を生み出さない。

 教室の扉は歪んでいてなかなか開かない。そんなついさっき見た事実すらも二人の頭から抜け落ちていた。

 ゆっくりと開こうとも歪んだ扉は必ずレールとぶつかる。コマの外れた扉は悲鳴のような高い音を立ててカベサーダに訴えかけた。

 ここに獲物がある、と。

 ヤバい、という中途半端ながらすべてを表す言葉が頭の中を駆け巡る。必ずこちらに来る。だから今すぐに逃げ出さなくてはいけない。

 一度鳴ってしまえば躊躇はない。光は力任せに扉を開け放つと、廊下を確認した。

いた! まずいな

 カベサーダは廊下の反対側の端。小さく見えるが、光差す廊下に真っ黒な体は目立ちすぎて見間違えようもない。体はもう大翔たちの方を向いている。完全にこちらに駆けてくる準備が始まっている。

大翔

早く!

 大翔は叫んで廊下の反対側に向かって走り出す。五〇メートルほどある距離でもカベサーダならほんの数秒で走破できるのだ。固まっている暇は一秒たりともない。

 走り出した大翔たちがすぐに角を曲がるとその先は下りの階段になっていた。あれほど続いていた廊下はない。

 本来なら昇り階段があるはずのところはコンクリートの壁で覆われ、下りの方も机を組んで針金をぐるぐると巻いた即席のバリケードが行く先を阻んでいた。もしかすると先に誰かが逃げ込んでこのバリケードを作り上げたのかもしれない。

 ただ今は誰が作ったのかなど考えている暇はない。後ろからはカベサーダの爪の音が確実に近づいてきていた。

大翔

くっそ!

ここまでか!

 背中に威圧感を感じて大翔は振り返る。後ろにいた光も同じように赤い眼光を見つめていた。カベサーダは止まっていた。いや、実際には止まってなどいない。命の危機を察した大翔たちの頭が時が止まって見えるほどに回転速度を上げているのだ。

 だが、頭が追いついていたとしてもそれに体はついてこない。恐怖に屈している。これほどまでに明快に状況を分析していながら、指一本の動かし方すら浮かんでこない。

 赤い眼が獲物に捉えたのは近くにいた光のほうだった。

 鋭い爪を光らせる両腕を光の肩に伸ばすと、爪をたてながら力任せに押し倒す。体格もよくない、恐怖で固まった光の体はドミノのようにそのまま床に倒れこんだ。

 それでも光は少しも動かなかった。もはや思考もショートして何をすべきか考えているかもわからない。脳の隅々まで探しても抵抗する手段が思いつかなかったのか、これから食いつこうとする相手の顔を見たまま呆然としていた。

 ただ大翔の脳は違った。

 これと同じ状況を大翔は知っている。一度は倒れた側として、もう一度は果たせなかった守る側として。

 そして三度目が今、この瞬間だった。

大翔

うおおぉりゃあ!

 バリケードからあぶれていた机を掴み、力任せに振り切った。光に意識を向けていたカベサーダは大翔の存在などまったく気にしていない。この瞬間なら大振りの大翔の攻撃でも当然のように頭に当たる。

 中空の脚がへし折れて、もはや机としては使い物にならなくなる。それでも大翔は一向に構わない。天板の割れた机でもう一度カベサーダの頭を振り抜いた。

 カベサーダは無言のままだったが、効いているらしく押し付けは弱まった。転がり出るように光がカベサーダの下から脱出すると、二人はカベサーダが走ってきた廊下に向かって走り出した。

大翔

くっそ、いつになったら夢から覚めるんだよ、俺は

 廊下の半分ほどを行ったところで後ろからやや速度は落ちているもののカベサーダが顔を覗かせる。尊臣が消火器で殴りつけたときよりはやはりダメージが小さい。昨夜の一撃よりも重たかったつもりだったのだが、カベサーダの動きがいいことが気になった。

いっそ戦ってみるかい?

大翔

でもどうやって?

奴が生き物なら必ず急所、弱点があるはずだ

大翔

こんな夢の中でも?

それはわからないね。この夢の主がわざわざ敵対する化物を完全無敵にするような卑屈な人間じゃないことを祈るだけだよ

 光は手近にあった野球部のものと思われる金属バットを手に取った。

どこかにあるはずさ。しっかり探してくれよ

大翔

探すったって、この状況で手がかりもなしに?

だからこうして時間を稼ぐんだろう? 安全第一でいこう

大翔

この選択が既に安全じゃないですって

 昨夜と今夜。同じ大翔が放った無我夢中の一撃にどれほどの違いがあったのか。もしかするとそこにカベサーダの弱点が隠れているのかもしれない。

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