大翔

はぁ

 夢見が悪かったせいか、寝たというのに少しも疲れは取れていなかった。大翔はいつもより早く教室に入ったその体を欲望に任せたままに机に横たえる。陽気は春から少しずつ夏に移り変わってきているが、うたた寝にはまだまだ心地よい。

 憎らしいのは自分の席が教室の中央にあることくらいだろうか。窓際ならあの暖かい日差しを布団代わりにしてゆっくりと眠ることが出来るのに、と大翔は教室に差し込む朝日恨めしげに見つめる。

 目を閉じてこのまま夢を見ることができたら、あの悪夢を消し去ることはできるだろうか。それともまだ悪夢は続くだろうか。

 大翔が自由に夢を動き回れるようになった一週間前からあの不気味な怪物は存在していたのだろうか。そんな場所で無邪気に遊んでいたと思うと自分の危機感のなさに溜息が出た。

 目を閉じて何かいいことを考えよう。まだ動揺の残る頭を回転させようとしたところに丸めた教科書が落ちてくる。

千早

まだ授業も始まってないのに、もう居眠り?

大翔

なんだよ、堂本。始まってないなら別にいいだろ

 視線だけを上げて頭を叩いた犯人を見上げた。確認しなくともこんなことをする人間を大翔は一人しか知らない。

千早

よくない。そうやってだらけてるから授業中も眠くなるの。今から気を引き締めておくの。ただでさえ神代くんはスロースターターなんだから

 セミロングの黒髪を掻き上げて堂本千早は大翔を見下ろしている。自分よりも間違いなく成績の良かった千早がどうして大翔と同じ高校の、よりにもよって同じクラスにいるのか。入学してもう二ヵ月が過ぎようとしているが、大翔には理解ができていない。

 他校に進学した女子からは古臭くてダサいと形容されるセーラー服をタイをきっちりと結んで着ているところを見ると、千早本人はそんなことは気にならないようだ。中学の時より少したけが短くなったような気がするスカートも校則を違反はしていない。

千早

ちょっとどこ見てるの!

 丸めた教科書が大翔の頭にさらに二発振ってくる。非力な千早が何度叩いたところで痛くもなんともないのだが。

大翔

今日はなんか目覚めが悪かったんだよ

千早

どうせ最近宣伝やってるゲーム、遅くまでやってたんでしょ?

大翔

そういう自分だってなんか目の下にクマができてるぞ

千早

嘘っ!

 慌てて目元を探る千早の姿に、大翔は少しときめいてしまう。なんだ女の子らしく見た目とか気にしてるんだ、と動揺を顔に出さないようにわざとらしく伸びをして起き上がる。

大翔

嘘だよ

千早

本当に?

大翔

いつも通り眉間に皺は寄ってるけどな

千早

誰のせいだと思ってるの

 中学生の頃から少しも変わらないやり取り。学年が変われば、高校生になれば、いつか変わってしまうかもしれないと思っていた関係はとりあえず今はまだ続いている。大翔はこの関係を変えたいと思いながらもまだそれを言葉に出せないでいる。

千早

まったくもう

 呆れたように言った千早の後ろで乱暴に教室の扉が開いた。まだ予鈴には時間がある。急いで教室に飛び込んでくる理由もないはずだった。

大翔

誰だ?

千早

うーん、でもあんな人いたら目立つと思うんだけど

 千早の言う通り、開け放った扉からゆっくりと教室に入ってきた男は異端だった。

 固めたワックスが光るオールバック、時代遅れの長ランと裾のウエストを広く取ったボンタンと呼ばれるスラックス。自分たちの親ですら着たことがないと思えるようなバブル時代前の服装をしている生徒がいれば嫌でも目立つはずだ。

 一学年のクラスの数は九。多すぎるということはないが別の階に教室があるクラスの連中なら見たことがなくてもおかしくはない。あんなのが教室に座っていたとしたら噂すらたてずに近づかないのが賢明な判断といえる。

 ただ大翔はその姿に見覚えがあった。

大翔

まさか、な

 昭和ヤンキーの風貌をそのままに、少しずつ賑わいはじめたクラスの中を睨むように見渡している顔は昨夜危機を乗り越えた戦友と同じだった。

おい

 大翔と目が合うと、そのヤンキー男は歩を早めて大翔の席へとまっすぐに近付いてくる。千早が大翔の背に隠れようとしたのを見て大翔は立ち上がった。

ワシの顔に見覚えはあるか?

大翔

あぁ、あるよ

そうか。ほんならちょいとツラぁ貸してくれんかの?

大翔

わかった

 大翔が答えると、千早は焦ったように大翔の学生服の裾を掴む。

千早

ちょっと

大翔

大丈夫だって

ちゃんと一限に間に合うように返しちゃるわ。五体満足でな

 もうちょっと言葉を選べよ、と大翔は千早の顔を振り返って確認する。大翔がどんな仕打ちを受けることを想像しているのかはわからないが、雨にうたれる子犬のように打ち震えている辺り、千早の頭の中では大翔は散々な状態になっているらしい。

 ケンカについてはサッパリだが、それにしてももう少し信用してくれてもいいと思うのだが。

 大翔は大丈夫だから、と表情で伝えてみようとしたものの思考が妄想に奪われている千早には届いていなかった。

千早

あ、あああ

 完全に思考がショートしてしまっている。これでは大翔が何を言ったところでまともな反応は帰ってこないだろう。大翔を止めるための言葉を探したまま動かなくなった千早を置いて、大翔はヤンキー男の後ろについて教室を出た。

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