立ち上がって逃げ出した一歩目で盛大に足を絡ませて転んだ大翔を、頬を掻きながら男が見下ろしていた。
うわあ!
なんじゃい。えらいビビりじゃの
立ち上がって逃げ出した一歩目で盛大に足を絡ませて転んだ大翔を、頬を掻きながら男が見下ろしていた。
薄い照明にもはっきり光るワックスで固めたオールバック。腰の下まで伸びる長ランに裾を絞った学生ズボン。バラエティ番組の昭和特集で何度か見たことがあるような数十年前の不良そのものの姿。肩パッドでも入っていそうないかり肩に大翔が見上げなくてはいけない長身。番長、というあだながこれほど似合いそうな人間もそういない。
またずいぶんと濃いキャラクターを
自分で生み出したものだ、と大翔は床に倒れたままヤンキー男を見つめている。ヤンキー男は呆然とする大翔を困ったように見つめ返した。
頭でも打ったか? それとも元々アホなんか?
いや、大丈夫だ
大翔はカーペット地の床から立ち上がって両手を払う。チリ一つ付かないこの空間はやはり現実とは思えない。
そんで、自分はさっきの見たか?
さっきの?
一階のとこで誰か殺されとったろうが
あ、あぁ
あれはやはり幻覚のようなものじゃなかったか。大翔が短く体を震わせたことを肯定と受け取ったようで、ヤンキー男は話を続ける。
あれ、何なんかわかるか?
いや、とにかくヤバそうではあったけど
大翔はもう一度現場を見る気にはなれずに自分が見ていた一部始終を思い返す。白いステージが赤く染まる瞬間は、想像するだけで身が凍るようだ。
あの黒い影は人の形に似ていた。襲われた男とあまり体格も変わらないようだった。ただ全身は黒ずんで少し光沢があり、間接が機能していないような脱力感が見えて奇怪だった。
でも、たぶん大丈夫だ
冷や汗の垂れる額を拭って大翔は漏らす。
なんじゃと?
ここは俺の夢の中なんだ。たとえ怪物に襲われようが殺されようが、目が覚めてしまえばそれまでなんだから
やっぱり自分、頭おかしゅうなっとるわ
考え込むように頭を抱えたヤンキー男の後ろ側。閉まっていたシャッターが大きな音を立てる。
な、なんだ?
規則的な音が続くとともに、シャッターの中央辺りが歪んでいく。何度目かの衝撃音で大穴が開けられたそこからぬるりと黒い影が這いずりだした。
夢ならいっそ襲われてみるか? 目が覚めるかもしれんがな
冗談じゃないっての
大翔が言うのと同時に二人は全力で走り出す。
足音に反応するように怪物が大翔たちの方へぬるりと向きを変える。
やばい、気付かれた!
振り返った大翔は、これが自分の頭の中にあるのかと思うとぞっとした。
背丈は一七〇センチほどだろうか。二足で立ってはいるものの背を丸めたその姿はやや小さく見えた。全身が黒ずんだ土色で覆われた怪物は顎と額が大きく隆起して、人間なら目や鼻がある辺りまで影になってしまっている。その奥で赤く浮かんだ瞳が強く命を主張して、逃げる大翔を見据えていた。
見とる場合か!
恐怖に飲まれそうになった大翔の肩をヤンキー男が叩く。夢の中にいるはずなのに現実と同じ衝撃が肩に伝わった。
あぁ
再び走り始めた大翔たちを怪物は狩る対象と認めたらしかった。
ほんの数歩でトップスピードまで達すると、恐怖に煽られてぎこちなく走る大翔の背を捕らえる。
速い。目で追えないということはないが、身体能力は人の限界に近い。テレビ越しに見たオリンピックの一〇〇メートル走よりもこちらに迫ってくる分速く感じられた。
逃げようともがいた大翔の肩を怪物が両腕で押さえつける。
激痛が走った。服の下が生温かく痺れていく。
それでも夢からは覚めない。
殺されないと目が覚めないのかよ
もしかすると、これは夢ではないのかもしれない。浮かんだ考えを振り払うように大翔は強がって笑う。
押し倒され、うつ伏せのまま見えない何かが大翔の背にのしかかっている。その重みが少し前に階下に見た怪物のものであり、両肩に刺さっているのは怪物の爪だと理解するのに時間はかからなかった。
ほら、とっとと逃げろよ。俺がコイツの気を引いてるうちに
一度は言ってみたいと思っていたセリフも、口に出してみるとただのやけっぱちだということがよくわかる。あの男には届いただろうか、と大翔が全身の力を抜いた瞬間、目の端に映る怪物の顔が歪んだ。
おら、無事か? カッコつける間があったらとっとと逃げ出さんかい!
助かる
大翔がヤンキー男に引き上げられると、足元に投げ捨てられた消火器が目に入った。不意打ちの強打を受けた怪物は痛みに混乱しているのか、頭を揺らして立ち上がらない。
普通の人間なら死んでいてもおかしくはない。二メートルに届きそうな巨体が手加減無しに振るった暴力を頭に受けてまだ意識があるだけでも普通ではない。見た目も運動能力も頑丈さも掛け値なしの怪物だと大翔は息を飲んだ。