第一九話 同人誌即売会の密室
第一九話 同人誌即売会の密室
クールジャパンとか、オタクは日本の文化とかというけれど、
一度でも同人誌即売会に行ったことがあるという人は、日本の人口に対して一体どれくらいの割合なんだろうか。
ぐぐってみたけど出てこなかった。
昔に比べて確かに敷居は低くなった感はあるものの、
ゲームをかなりやり込んでる俺でも、
薄い本がほしいかというと”そこまでは”ってなるし、
コスプレを見たいかっていうと”まあ見たいけど画像アップされるからいいかな”ってなる。
やっぱここは、
ガチでコアで薄暗く、アツい情熱を持った選ばれしモノたちが集う場所なのだろう。
同人誌即売会。
足を踏み入れましたよ、俺。
しかも売る側になってますよ(売り子っていうのね)。
しかもなんかすげえ人きますよ。売れてますよ。
最後尾こちらですー二列でお並びくださーい
新作セットをご購入予定の方は一番奥までお進みください、3500円となりますー
恐れ入りますがおつりのないように、ご協力をおねがいしますー!
アオイトリとのふれあいをご希望の方はご購入後午後からお越しくださいー。
今はみなさまがなるべく早く自由になれますよう、ご協力をお願いしますー
行列形成は北鎌倉と七星がやっている。
どこで得たスキルなのか知らないが、最短・最速で本が買えるように列が作られていく。
俺は右から左にお金を受け取り新刊セットをお渡しする最もイージーな仕事を請け負っている。
この仕事、とにかくスピードと動体視力が肝心なようだ。
はい・はい・はい・ありがとうございます!
正直、こんなに愛想もなく流れ作業的に売りさばいのていいのかなと最初は戸惑った。
ほとんどのお客様は無駄話一つせず、無言でお金を渡してくれ(おつり不要率90%)、
あらかじめひとまとめにされた新刊セットバッグを受け取って、一礼して離れていく。
ひっじょーーにオートマチックだ。こういうもんなのか。
後から北鎌倉から聞いたが、コアなファンであるほどなるべく滞在時間を短くしようと心がけるものだそうだ。
そうすることで迅速に列が消化でき、売り手であるアオイトリ先生に迷惑をかけなくてすむというわけらしい。
だからたまーに、
あの、アオイトリ先生ですか!? あの、私いつもカキコミしてるペンギン2号です、握手を……
こういうビギナーな女の子が現れると、途端に後ろのお姉さま方からチッと舌打ちが雨音のように聞こえる。
え、えと、ごめん俺アオイトリ先生じゃなくて……伯爵はええと、今別のところに……
はいはいはいはいアオイトリ先生ですね、先生は11時すぎころからスペースに参ります
またぜひいらしてくださいねー!
もたつく俺の横からプロフェッショナルな合いの手が入り、女の子はスミマセンと慌てながら新刊をさらっていった。
ちょ北鎌倉、追い払わなくても
アマネ様、売り子の仕事はスピーディにお客様に新刊をお渡しし、次の戦場へと一秒でも早く送り出すこと、これに尽きますわ
次の戦場ってなによ
人気のサークルはここだけではありませんわ。一冊でも多くの新刊を手に入れるために、お客様は行列から行列に渡り歩かねばならぬのです
はあ、なるほど
どこかのサークルでもたついたせいで、次に並んだ列で新刊が売り切れたらどうします。自分のすぐ目の前で完売ですと言われたらどうします
…………
俺たちの話を聞いていたお客様たちが心底青ざめた顔をしていた。
そ、それはすげえショックなんだろうな
ショックですとも。一週間ひきずりますとも。ですから、私たちの最大のおもてなしはスピードなのですわ
えらい世界もあったもんだ。
ならば、と俺はスピードを倍速チャージする。
かくして、行列は10時半ころには捌け、アオイトリ先生の新刊は完売御礼の札を出した。
こ、こんなに売れるもんなんだなあ同人誌……
肩で息をしつつ、俺は久しぶりの労働による心地よい汗をぬぐう。
商業スペースでもないのにここまで売れるのは珍しいですね。
しかもプロの作家ではないのにこの集客力、おそるべし、アオイトリです
ようやく俺たちはイスに座り、お茶を飲める余裕ができた。
七星は新刊セットを抱きしめ、嬉しそうに微笑んでいる。
うふふ、私も買っちゃいました。後で読むのが楽しみですわ
で、アオイトリ伯爵とうちのオッサンはどこに行ったの
自分がいると列の消化が良くないというので、エルンスト伯爵は”別宅に行く”と言って、
朝からここを離れている。
どうやら、アオイトリ先生が超絶美形であることもファンの皆さまはよくご存じで、
会って話をすることを楽しみにしている女子も多いようだ。
列がなくなった今も、なんとなく遠巻きに卿の到着をうかがっているファンの皆さまがちらほらと見受けられる。
朝にちらっと聞いた話ですと、伯爵は新しいジャンルで別名義で書いておられるのだそうです。
そこだとまだ知名度がないので、そちらにおられるとか
それでしたら、誰にも邪魔されずジルおじさまも積もる話ができますわね
や、あの二人で座ってたら目立つと思うけど……
女の子の押し殺したような嬌声が聞こえ、目を上げるとその目立つ二人がこちらに向かって歩いてきていた。
コスプレイヤーの皆さんもいらっしゃるとはいえ、
やっぱりあの二人の日本人ではない耽美な美しさは、遠目にもオーラのようなものを放っている。
ええ、もう売り切ったのかい。手際がいいなあ!
エルンスト伯爵は感心したように、今やガラガラになった売り場を見渡した。
まだ人がいっぱいいるだろうと思ったのに。やあ、ジルはとんでもない助っ人を連れてきたものだ
私の自慢の魔女たちだよ
ジルは誇らしげに微笑んでいる。
褒められた北鎌倉や七星は、恥じらうように首をすくめている。
なんか伯爵の前では可愛くてむかつくな。
朝はまともにあいさつもできなくて失敬したね
ふと見上げると、エルンスト伯爵がまっすぐに俺を見て目を細めた。
会えてうれしいよ、渋澤普。君を最後に見たのはまだ生まれて間もない時だったから
俺は急に現実に引き戻された気がして、きょんと瞬きした。
お会いしたことがあったんですか
ああ。志摩さんと、夜子とで最後の話し合いをした時にね。君は志摩さんの腕の中ですやすや眠ってたな
つい昨日のことのような口ぶりで、伯爵は言った。
伯爵は長机の隙間をぬって入り込むと、およそ彼にふさわしくないパイプ椅子を引きずってきて、俺の隣に腰かけた。
ジルから事の顛末は聞いたよ。ハイネに噛まれたんだってね
俺は無意識にハイネに噛まれたほうの首を押さえると、なんとなく気恥ずかしい気持ちになってうつむいた。
おそらく君に嫉妬して、感情的になってやったのだとは思うが
25年経っても、あの子のああいうところは全然変わっていない
そのようだ
吸血鬼二人が苦笑いをしながらため息をつく。
待たせてしまったが、今日は話すべきことはすべて話すつもりだよ
エルンスト伯爵はそう言って、ミネラルウォーターのようにアイアンマッスルを取り出すと、喉をうるおした。
同人誌即売会のざわめきは続いている。
人間社会の中から少しだけ道を外した人々の群が、まるで生きた壁のように見えて、俺はぞくっとした。
こんなに人がいるのに、この売り物の無くなった角のブースが、一つの密室であるかのように思えた。
その奇妙な空間の中で、日本の吸血鬼の最高権力者は、ゆっくりと語り出した。
あの事件は私にとっても衝撃的なニュースでね
夜の世界の大立者であるジルが、自分の愛息子というべきハイネと戦っただけでも事件なのに、
人間の女に殺されたのだから
殺された…
うん、あれは、正直殺された、と表現してよかった。
私の技術がなければ、おそらくジルは死んでいた
俺はごくりと生唾を呑み込んだ。
嫌味ではなく、本当にね、君の母上は大した女性だった。
男の戦場にもあんな豪傑はそうそういるものじゃない。
何しろジルを刺した後、彼女は自分の腕を掻っ切ってその血をハイネに飲ませたんだ
!
ハイネは志摩の血で力を取り戻した。二人は松彦を連れて病院から逃げ出したんだよ
ハァ、ハァ
ハァ、ハァ…
逃げるってどこへ――――
志摩は夜子に内緒で、どこかに別荘を借りていたようだね。
松彦が吸血鬼になるまで、ハイネも含めそこでひっそりと暮らそうと思っていたのかもしれない
――――
ハァ、ハァ、ハァ
さぁ、早く乗って!
ああ!
ッ!?
だが、三人での逃亡は結局できなかった
何故です
志摩が産気づいたからだよ
…………
――――ッ!!!
何故だろう。
ストンと腑に落ちた。
オヤジとおふくろがはぐれたのは、俺のせいだったんだ。
ハイネ、あなた、運転できるでしょう!
でも……
行って!! いいから行って、早く!!
志摩はハイネを逃がし、自分は残った。
彼女の身柄はすぐに夜子に保護された。
死にかけたジルは、私と仲間の吸血鬼たちが引き受け、月光館で眠りにつかせた。
……ここからが問題だった
当時どれほど大変だったか、さっきまでジルにグチっていたのさ、と伯爵はほがらかに言った。
ジルは目を伏せるようにして、神妙な顔で話に聞き入っている。
さっきも言った通り、ジルは夜の世界の大立者だ。彼を殺した人間の女は、私刑にされてしかるべきだ
伯爵はきっぱりと言い切った。やさしげな顔に氷の刃のような冷たさがきらめいたように見えた
吸血鬼社会に彼女が犯人だと知れてしまえば、
私が止めても多くの吸血鬼たちが志摩を殺しに行くだろう。
本気でジルの仇を取りたい者もいるし、制裁を口実に久々に人間の血にありつきたい者もいる
……そんな……
我々は吸血鬼だからね
花がゆらりと揺れるように、エルンスト伯爵は微笑んだ。
それを止めたのが夜子だった
おばあさまが?
そう。夜子は、我々に取引をもちかけてきたんだ
取引………
志摩の罪は私が裁きます
志摩への制裁は私が行います。
彼女の地位、財産すべてを奪い、渋澤家から永久に追放します。
志摩はもともと渋澤家の財産とステイタスが目的でやってきた女。
彼女にとって縁切りは死に等しいわ
その代わり、渋澤家はジルの傷が癒えて目覚めるまで、
彼を死守します。
たとえ私が死んでも、彼を守りぬくシステムを作る
守り抜くシステム……
それが相続遺産ということか……
…制裁としては少々ぬるいが、永遠の命をもつ私たち吸血鬼にとって、
渋澤家のようなパトロンもまた貴重な存在だ。
私は夜子の提案を受け入れ、代わりにハイネを犯人とした
…………
ハイネが、おふくろの代わりに犯人になったのか
吸血鬼の世界ではハイネはまだまだ子供でね。
君たちの社会でいくと中学生くらいの感覚だ。
中学生が親を殴って家出したとしたら、君らは彼を処罰するかね
処罰…というより、まず保護するでしょうね
そう。我々の世界でもそういうことになる。
この事件の落としどころとしては、それしかなかったというわけさ
俺は七星たちと目を合わせた。
急に、ハイネが哀れに思えてきた。
その後、私の立ち合いのもとで志摩と夜子の話し合いがもたれた。
夜子が志摩に言い渡したのは三つ。
渋澤家との絶縁、
松彦と永遠に接触しないこと、
普を人の手を借りず育て上げること。
志摩がこの三つの約束を破った時は、普は渋澤家に引き渡される。
志摩はこれを受け入れた。
……
んっ
あれ、なんだか話がおかしくなってる……
そう。実際は、この3つの約束を破った場合、
奪われるのは志摩自身の命だったんだ。
だが、夜子は志摩の性格を知っている。
彼女は自分の命を顧みることはしない。
だから、君を人質に取るような言い方をしたんだろうね
………
新しいことが知らされるほどに、
俺は、俺という存在がどれだけ自分の母親を縛っていたのかを思い知る。
ばあさんと吸血鬼に裁かれ、
渋澤家を出て行った後のおふくろが、俺の知るおふくろだ。
渋澤家の嫁というステイタスや社会でのキャリアを身ぐるみはがされ、
命がけで助けようとした夫とも二度と会うことができず。
手の中にあるのは、生まれたばかりの俺だけ。
そうしておふくろは、働きに、働いたのだ。
ごく平凡で、働き者で、口やかましくて、おせっかいで、うっとおしい、
俺の知ってるガサツなおふくろになったのだ。
俺は、沸き上がってくるものを止められなくて、椅子を蹴るようにしてその場を離れた。