今日は本来ならば正太郎が出張から帰ってくる日である。
モヤモヤとした日々を過ごしていた百合だったが、ついに心を決めていた。
決めた……。
ちゃんと聞こう……。
今日は本来ならば正太郎が出張から帰ってくる日である。
モヤモヤとした日々を過ごしていた百合だったが、ついに心を決めていた。
私はあの人が好き……。
今更確認することじゃない……。
それ以上に私にとってはこの上ないほどの恩人。
自由をくれた人……。
その人が幸せを目指すなら……。
百合は今までと同じように夕飯の支度をする。
ただ、同じようにと見えるのは外面だけで、内に秘めた思いはただものではない。
あまり自分のことについて多くは語らない性格の正太郎だが、共に過ごしてきて好みの食べ物くらいは把握している。
どれもおいしそうに食べるが、その中でも好きなものを食べた時の表情は微妙に変わる。
百合はその変化を見逃していなかった。これも遊女時代に培われた能力なのだろう。
今だけはあの場所に感謝なのかな……
ガラにもないことを考えてしまう。
つい料理の手が止まりそうになるが、百合は慌てて作業に戻る。
煮物から醤油と砂糖の煮詰まったいい香りが漂い、台所から部屋全体にわたっていく。
窯を開けると、白いご飯が顔をのぞかせ、甘い香りをまとった蒸気が吹きだしながら、百合の視界を真っ白に染めた。
ここまで真っ白なご飯を食べることは珍しい。
今日は特別だという意識の表れだろうか……。
できる準備はすべて終わった……。
百合がちょうどご飯の支度を終えるのを見計らっていたかのように、玄関の扉が開く音がした。
ただいま。
なんだかいい匂いがするね
お帰りなさい。
正太郎さんが帰ってくるのが楽しみで張りきっちゃいました。
百合は正太郎を笑顔で出迎える。
正太郎の上着を受け取り、綺麗に壁にかける。
いつもの仕草にも少し力が入っている気がする。
やっぱり緊張してるのかな
そんなことを考えていると、玄関から正太郎の声がした。
どうも自分を呼んでいるようだった。
駆け足で玄関へと向かった百合は、目の前の光景を見て息をすることを忘れてしまった。
こんばんは……。
……。
周囲から物音がすべて消え、世界がモノクロにかわっていった。
百合さん紹介するよ。この人は――
知ってますよ……。
分かってます……
え?
私見てたんですよ……
正太郎さんがその人と一緒に、装飾品のお店に入っていくところ。
百合さん……?
覚悟はしていた。
まさか話し合う余地もないとは思わなかったが。
私を吉原から連れ出してくれた……。
正太郎さんは私の恩人です。
なので、私は正太郎さんが一番幸せになってくれるように……。
私は……。
百合の目に涙が浮かぶ。
泣くつもりはなかった。
笑顔でいるはずだった。
百合のぐしゃぐしゃな笑顔とは不釣り合いに涙は止まることなく流れ続ける。
このままだと、正太郎のためにならない。
そんなことは分かっているはずだったのに……。
私は……。
私は……。
百合さん……?
なんか勘違いしてませんか?
慰めは……いいです……。
いや、この人は僕の妹の綾だよ?
え?
一瞬なにを言われてるのか分からなかった。
え?じゃあ、装飾品店に入っていったのは……。妹さんへの贈り物……?
えっと……。それは……
ほら!
これ……。百合さんに……
私に……?
お兄さん、こういうの選ぶセンスないから。
私が協力してたんです
それで変な心配させちゃったみたいで……
こっちこそ早とちりしちゃってたみたいで……。
冷静になった百合の額から変な汗が噴き出てきた。
三人の間に妙な空気が流れる。
あの……。百合さん……
は、はい!
僕は、百合さんのことを嫌いになったりしてないし、一生守っていくから
正太郎としては沈黙を打ち破るためだったのだろう。
しかし、百合はその何気ない一言に救われた気がした
百合さん?
なんで泣いてるの?
すみません……
私……うれしくて……
すべてから解き放たれた気がした百合の目から再び涙が流れた。
先ほどとは違い、我慢することなく、泣きたいだけ泣いた。
心配させたみたいでごめんね。
せっかくご飯準備してくれたんだし、食べようか。
はい……。
あの、綾さんも……。
はい。
なんとなくぎこちない3人だが、一緒に食卓を囲めば緊張もほぐれるだろう。
せっかく腕を振るったのだ。
これで仲良くできるだろう……。
なんていうか……。
ご飯、冷めちゃったね……。
百合も綾も苦笑いを浮かべる。
しかし、その苦笑いもだんだんと温かい笑いになる。
ありがとうございます……
あなた……。
百合は正太郎にゆっくり微笑んだ。