次に、あの最初の宗教じみた、哲学じみた言葉について述べよう。

「完全なる平和は人類へ破滅への一撃を与える。」

 前に、平和について述べたことがあるが、その時に平和は物理性と、精神性の二面性を持つということを語った。よって、これらの両側面から語ることにしよう。


 まず、物理性について。

 平和によってもたらされる破滅へのピース。

 一つ目は、「危機管理能力の異常衰退」だ。

 予想も付いていると思うが、生物の進化というものはあらゆる脅威から身を守る為に行われてきた。より弱く、無防備な種から淘汰されていった。そして、これはダーウィニズムにおける自然淘汰にあたる。
 
 しかし、ここで一度立ち止まって考えてほしい。人類はこの自然淘汰の波から外れてはいないか?人類はより生存力を高めるための機能を失っているのだ。

 たとえば、フェロモンの異常減少、知性の減衰、脳の縮小、各運動器官の消失・減衰、体力の減少、と枚挙にいとまがない。

 さらに、人類の無防備性の極めつけは、睡眠だ。寝首を掻くとはよく言ったもので、人類は睡眠行為に関して最大級に危機を感じていない。
 眠った後、目を覚ます前に死んでしまい、文字通りの永眠になってしまうなんて考えたことがある人は、よっぽどの中二病か恨みをかって狙われてるか、菜月昴くらいのものだろう。

 二つ目は、「人口爆発」だ。

 半世紀以内に100億人を超えるといわれている世界人口。
 しかし、地球最適人口は10億~20億と言われている。
 人口爆発の原因は医療のパラダイムシフトや産業革命による影響が大きいといわれている。
 現代においては、何かを根幹から揺るがすような変化はもう起こらないだろうといわれているが、完全な平和というものがもたらされれば話は別だ。
 
 戦争の原因に、人口増加に伴う居住区の確保や、農地や資源を奪う為というものがあるが、完全なる平和の世界では戦争の概念は矛盾してしまう為、ほかの手段を用いるしかない。

 例えば、人類から食欲を取り除き、光合成なりその他の手段に生命維持を移行する。また、人々を人口調整と称し、穏便に心穏やかにに処分する。
 そのためには処分した人に関する記憶を世界から抹消するか、この人口調整はあたりまえのことで、なにも不思議はないという感覚を植え付ける必要がある。
 
 要は、平和な世界に人口爆発は付属物としてついてきて、その効果によって平和は脅かされるというパラドックスが起こってしまう。
 化学の考えを利用すれば、人口と平和は平衡関係にあって、人口が増えれば平和にするために人口を減らし平衡は右による。
 平和の度合いが上がればそれに合わせて人口が増え、結果平和が脅かされ平衡は左による。
 

 次に、精神性について。長くなってきたので、三つ目だけにしておく。
 
 三つめは、「疑わない世界」。

 精神的な平和は、人類から疑いの概念を毟り取る。
 人類の進化や、科学の発展、そして数々の発見。これらはまず疑うことから始まっている。
 しかし、精神的な平和がもたらされれば、それは現状に満足しているということ。よって、今後は現状維持一択となってしまい、進歩の足は止まる。

 また、人間関係においても言える。
 疑わないということは美徳で、信用の証だと考えている人がいるのかもしれないがそれは全く違う。
 それは、人間関係の放棄だ。一生表面上の付き合いとなる。

 人を信用するということは、それなりの過程やファクターを経て、つまり疑ったりぶつかったりすることで初めて生まれるものであって、何もないところからは決して生まれない。
 また、相手を疑う気持ちがなくなれば、他の人の感情を理解する機会もなくなり、やがて、感情自体がなくなってしまうということさえ考えられる。

 以上の三つのこと以外にもたくさんあるのだが、今回は、割愛させていただきたい。

 話は戻して、以上の三つのことだけでも、平和によって、人々それぞれ自分自身の首を絞める結果となり、さらには自分たちの生存すら脅かし、そのうえ感情などの人間らしさまでも失うという悲惨な末路へと向かってしまうことが分かるだろうか。
 まさに、破滅への一撃といえるだろう。


「完全なる幸福はときに人類の毒となる。」

 これについても、正直平和のところで話したところと重なってきてしまうので、違う点について語ろうと思う。
 
 幸福は、人々にもちろん幸せをもたらす。しかし、常に幸福で、常に幸せな気持ちでいっぱいで…… 本当にそれを幸せといっていいのだろうか。
 幸せをもぎ取るために、努力をして、つらくて、痛くて、苦しくて、心が折れそうになって…… それで初めてつかみ取るからこそ、それが幸せで、幸福であるのだと感じるのではないか?
 常に、幸福におぼれているだけの怠惰な人間は、本当に幸せであるといってもいいのだろうか? 
 
 否、断じて違う、と、言いたいところではあるが、人それぞれであるので、ここは断定を避けておきます。
 しかし、そんな幸福におぼれているような人間で溢れてしまえば、人々は幸福なんだからそれ以上は望まなくなりひたすら楽を求め始めます。
 
 この行為こそが、毒たる所以です。
 要は、幸福には中毒性があって、一度おぼれてしまえばそれを得るためならば何でもし始めます。
 逆に、得られないことが分かれば、そこで耐え難い絶望と喪失感を体験し、廃人になって再起不能になるか、自殺するかとなってしまうかもしれません。


 ここまで来て、わかると思いますが、平和も幸福も行き過ぎてしまえば結果、不幸な結末を迎えてしまうという、逆説的なものになっていますが、見方を変えれば、「適当なだけの平和と幸福」「人類に見合った平和と幸福」、これがベストな世界だ、と、いえるのではないでしょうか?

 
 最後に、平和と幸福に関しては人によって大きく変わってくるような、そんなテーマであると思います。
 そして、考えてみる機会というのもそうそうないんじゃないでしょうか?
 ここまでせっかく長文を読んでくれた人がもしいたのなら、ぜひ一度考えてみてくださいね!

完全なる幸福と平和の副作用 Part2

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