『完全なる平和と幸福の副作用』

「完全なる平和は人類へ破滅への一撃を与える。」
「完全なる幸福はときに人類の毒となる。」

 なんか、どっかの哲学者が入ってそうな言葉ですが、多分誰も入って無いと思います。(なんか似てるのあったら教えて笑)
ということで、話を戻して、今回のテーマは、平和と幸福は本当にプラスイメージの素晴らしいことなのか?ということについてです。

いきなりですが結論を述べます。

『Нет』 『No』

 ……って、えっ、って思ったかもしれ無い。というか、人間的には思うのが至極当然で人類らしい偽善に満ちた、当たり前の感情でしょう。(っていう皮肉笑)
 ただし、大事なことなので2回言います。平和も幸福も素晴らしいこととは限りません。

 よく、「大きな力、望む力は対価なしには得ることができない。」というような言葉が、小説やアニメ等で出てきますよね。

 まさに、完全なる平和と幸福は、その大きな力、望みに当たる。人類全体にとってでさえあまりに余る事なのだ。

 何故なら、完全なる平和と幸福の世界では自然災害の被害がないはずで、それは自然を人間が掌握するということ。正直ありえない。身に余っているからだ。

 さらに、不幸や危機の運命も改変していかなくてはならない。ここまでくれば神の所業だ。

 ここまできたらわかるように、完全なる平和と幸福の享受は、一種の神的力でもないと達成不可能で、莫大な対価が必要となるということだ。


 では、『対価』とはなんなのか?
 ここで3つほどの視点から見てみよう。

 一つ目の視点、それは、レギュレーション、つまり「制限」だ。

 よく、対戦系のゲームで、レギュレーションマッチなどがあるように、大きな力を使う対価として、何かの機能を制限するということだ。

 例えば、「現実を捨てる」ことだ。

 人間それぞれが思い描いた平和や幸福をそれぞれが享受することのできる夢のような世界。というか、夢の世界だ。
 要は、人類を生まれながらに眠らせ夢の世界または仮想現実などにに閉じ込め、その世界で都合のいいように生きてもらうということだ。ただ、最初に述べた通り、現実というものは捨てなくてはなら無い。

 二つ目の視点は、「世界の最適化」だ。

 まず、人類は自然災害や人工的な災害の起こる陸上を捨て、空へ移住する。つまり、人類の生活に都合のいいように浮遊都市を作り上げるということだ。
 また、限られた土地で食物栽培や居住区の建設をしなければいけないので、厳しい人工調整を行わなければならない。
 これで環境の最適化は完了。
 続いて、人間の最適化に移る。まずは、まるでアニメのサイコパスの世界のように、いや、それ以上の次元で、犯罪的な思考のみならず、平和や幸福と異なる思考を排除する。
 それか、〈harnony/〉の世界のように、幸福システムによって、極端な健康志向と社会の調和を重んじた、超高度医療社会に人類を適応させ、それ以外の思考をさせない、つまり、自律的な思考の停止状態にまで追いやる。

 これで、「世界の最適化」は達成される。


 三つ目の視点は、「排除」だ。

 要は、完全なる平和と幸福の世界に必要のない要素は排除するということだ。
 しかしこの場合、対価となるのは、人類の存在そのものも含まれることだろう。
 つまり、この世界の最終地点には、人類種の生み出したものも含め、存在諸共消失していることだろう。


 以上からわかる通り、残念ながら完全なる平和と幸福の世界を創造するための対価を支払えば、人類らしい暮らしどころか人類諸共消えてしまうという結果もなりうる。

 「世界の最適化」という、世にも恐ろしい言葉の意味がわかっただろうか?

 そして、人間が望まずとも「世界の最適化」を実現してしまう可能性が出てきた。それは人工知能だ。
 おそらく人工知能の機能の発達に伴い、人工知能はやはり学習機能があるとはいえ、機械には違いないため、世界の最適化を行おうとして、人類を排除してしまうのかもしれない。

 以上のことから、完全なる平和と幸福の『対価』がいかに恐ろしいものか、そして取り返しのつかない莫大なものかわかっただろうか?

完全なる幸福と平和の副作用 Part1

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