翌日。

 私はふらりとまたあの部屋へやってきた。


 なんというわけでもない。
 ただの腹ごなし、散歩がてらだ。


 風通しが良いようにまたドアは少し開いている。

 するりと入る私。

 すると中には彼女と、彼女のそばに座る一人の男性がいた。

うまいもん、食わせてやれなくてすまんな……

何をおっしゃいますか。あなたが謝ることではないでしょう

 二人とも私には気づいてない様子。

 聞き耳を立てていると、どうやら男は彼女の夫のようだ。

 旦那さん。
 騎士のような身なりをしている。

 妻を城に住まわせることができるほどならば、それなりの地位にある人物なのだろう。


 だいぶ妻のほうが若く見えるが、それは病気で細く小さいせいなのか、旦那のほうが苦労して老けて見えるのかはわからない。


 ただ見つめあう姿には愛があった。
 夫婦が共有する、安らかな時間。


 邪魔をするのも野暮だと、私はドアから出ようとする。

なんだこの猫は

ふふ、私のお友達よ

 すると旦那のほうに気づかれ、妻においでおいでされる。

おいおい、どこから入ったんだ? 体に障るんじゃねーか?

大丈夫よ。この子は、私を迎えに来てくれた天使さん……だったりしてね

 突然男は立ち上がり怒声をあげる。

そんなこと言うな!

あなた……

 そして彼女を抱きしめた。

そんなこと言わないでくれ……

ごめんなさい。でもね、私はもうすぐいなくなるわ。だからあなたには強く生きて欲しいの。部下に慕われる、強くて頼もしい騎士団長。そんなあなたを愛しているから

俺は、お前の病気を治すことはできない……俺がどんなに強くなろうとも……一番大切な妻を……お前を病魔から守れないんだ! 死を宣告されて……つらいだろうに、苦しいだろうに……。俺はなんて……非力なんだ。くそっ

 ……シリアス部屋に入ってしまったようだ。
 場違いね。

 そーっと、忍び足で出口へ向かう私。

大丈夫。私、死ぬのは怖くないですよ

……

 私は、その妻の一言で足を止めた。

 死ぬのが怖くない、そんな人間がいるものか。

どうしてだ……俺は、お前が遠くに行ってしまうのが怖いよ

きっと天国はすごく良いところなんです。 だって、行った人が誰一人帰ってこないのだから。私はそこへ一足先に行かせてもらいますわ。そしていつか、おじいちゃんになったあなたと再会できる日を。それが私の楽しみよ

 天国か。


 そこがもし現世より幸せな国だと証明されたら、きっと人間は皆自殺するだろう。

 だから天界がどんなところであるか、天使たちは人間に言ってはいけない。


 そんなルールを神が決めたのも、こうして二人を見ているとなんとなく理解できる。

 個々の人生がどんなに短くても、どんなに長くても、現世に生まれた意味は必ずあるのだから。

っ……

 そして男は必死に涙を堪えながら、部屋を後にした。

ねこちゃん。こっちへいらっしゃい

にゃあ……

 白く細い手が私を呼ぶ。
 ひょいと膝元へ飛び乗る私。

私、死ぬのは怖くないよ

 私を撫でながら、彼女はそうつぶやいた。
 さっき言ってた言葉だ。

にゃ(本当にそう思っているの?)

え? 猫ちゃん?

 私は思わずテレパシーを発していた。
 どうしても聞きたかったから。

 人間が何を考え、何のために他人を愛すのか知りたい。


 彼女は驚きながらも、また笑顔で私を撫でる。

ふふ、あなたは本当に天使なのかしら。声が聞こえちゃうなんて。私ももう天国に行くのかな

にゃ(天国が良いところだと思うから怖くないの?)

そうね……死ぬのは怖くない

でもね、だからといって死にたいわけじゃないの

 そう言うと彼女は窓の外を遠く見つめる。

……あの人と別れるのだけが、辛いわ

……

明日には……明日にはもう会えないかもしれない、そう思うと……涙が出るの

……

でも……私が受け入れなくっちゃね! あの人に心配かけるだけだから!

 彼女は笑顔でそう言った。

 どうしてそこで笑顔を作れるの?
 こんなに短くして終わってしまう人生を、こんな運命にした神を呪わないの?


 彼女はスッと麦わらに手をやる。

この麦わら帽子は、不器用なあの人が初めてくれたプレゼントなんだよ。……実は明日、私の誕生日なの。あの人、誕生日には毎年ね、海へ連れてってくれるんだ。この麦わら帽子を被って、思い出の海へ。今年も行こうって約束してたんだけど……それも叶いそうにないけどね

にゃ(……それが死にたくない理由?)

ううん、私はそれでも充実した人生だった。幸せだったよ。ただ……残されたあの人が辛いだろうなって

……

あの海を見て、きっとあの人は涙を流すの。くる年もくる年も。こんな私のせいで

 そう言うと彼女は俯いたまま肩を震わせた。

……

にゃ(もしも……)

 私はあの質問をしてみた。

にゃ(もしも願いが叶うなら……何を願う?)

 何を願うだろうか。

 やはり病気を治して欲しいという願いか。


 それとも、明日の誕生日に、彼と一緒に海へ行きたいとか。

 最後の思い出作り。

そうね、やっぱり――

 ――そう言いかけた時、彼女の容態が急変した。

 胸に手を当てて苦しみだす。
 呼吸が止まり、チアノーゼを起こしている。

 私は部屋を飛び出した。
 ――誰でもいい、人を呼ばなきゃ。



 近くを歩いていた衛兵の服に噛みつき、引っ張ってくる。


 そして意識を失っている彼女は、医務室へと運ばれる。




 それを見届けた後、私は城を飛び出した。

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