百合

あの人誰だったんだろう……

翌朝、朝食の準備をする時にも百合の顔は浮かなかった。
正太郎のことを考えるたびに隣の女性のことが思い浮かんでしまう。

百合

あの人は優しい人だし……
人助けでもしたのよきっと……
そうに違いないわ……

正太郎

百合さん?

百合

ひゃい!!

考え事をしているところに、突然正太郎の声が降ってきたことで、百合は妙な声を上げてしまった。

正太郎

どうしたんですか?可愛い声を上げてますけど?

百合

しょ、正太郎さんが突然話しかけるから……

正太郎

え?
さっきから呼んでたんだけど……
聞こえてなかった?

百合

そうだったんですね……
聞こえてませんでした……

正太郎

考え事でもしてた?

図星をつかれた百合は一瞬はっとしたが、すぐに平然を装って首を横に振った

ばれてはいないだろうか……
そんな不安が百合の心に和紙にこぼれた墨汁のように広がった。

正太郎

そっか。
無理しないでね、何かあったらすぐに相談してよ?
百合さんはすぐに抱え込む癖があるからね

正太郎ははにかみながら言った。

やっぱりこの人は優しいな……
そう思えば思うほど百合の不安は広がる。

百合

せっかく助けてくれたのに疑うなんて……
どこまで私の性根は腐ってるのでしょうね……

朝食の準備をしている百合の脳内はそんな自己嫌悪が支配していた。

百合

やることがなくなってしまいました

掃除を終えた百合は最後に掃除していた鏡に映る自分に向かって話しかけた。

傍から見れば鏡の中に映る自分と話をしているちょっとイタい子に見られかけない。

鏡の前に座った百合はうーんと考える。
今日買わなければいけないものもない、掃除する場所も洗濯する物もない。

しかし、部屋の中で一人で何もしないでいるといるとどうも気分が悪くなる。
吉原時代の名残なのか、夜が来るのを無意識に拒むような心境になるのだ。

百合

せっかくだし、少し外に出て気分転換でもしましょう。

そう言って百合は出かける準備を始めた。

外出用の服に着替える時間は、百合にとって自由を実感できる時間でもある。

そして、正太郎のことを思いだす時間でもある。

百合

もし、またあの人と正太郎さんが一緒にいるところを見てしまったらどうしましょう……

百合はぼんやりと考えた。
問い詰めるべきか、前回と同じように見守るべきか。

いくら考えても分からない。

百合

その時にならないと分からないですよね……

百合は自分の頬をつかんで横に引っ張る。
鏡の中の自分はひどい顔をしていた。

こうすると、何もかもがおかしく見え、悩みがどうでもよくなってくるのだ。

幸いにもというべきか、散歩の間特に変わったことは起きなかった。
正太郎に出会うことも、あのときの女性にあうこともなかった。

百合

そういえば、一人で出歩くなんていつ以来かしら?

思えば、吉原にいるときには外出はほぼ許されず、正太郎と暮らしはじめてからは二人で出かけることがほとんどであった。

一人で出歩いた記憶は、幼い頃に暮らした場所でのものしかない。

吉原に来る前の朧げな記憶しかない。

百合

なんか……嫌なこと思いだしちゃったわね……
慣れないことするからかしら……

そう言って百合は家路についた。
夕飯の支度もあるが、早くあの家に帰りたくなっていた。

あの温かさに触れたくなっていた。

百合

……遅い……

百合は並べられた食器を前に呟いた。
正太郎が普段帰ってくる時間を大きく過ぎている。

仮に帰りが遅くなるなら、行く前に一言かけてくれていた。

予告なく遅れるのは今日が初めてであった。

百合

やっぱり何かあるのかしら……

そんな風に考えていた直後、玄関の開く音がした。
駆け足で百合が玄関へ向かうと、そこには正太郎が立っていた。

正太郎

すまない、遅くなってしまって

百合

大丈夫ですよ。ご飯用意しますね。

平静を装って百合は台所へと歩いた。
正太郎は特に変わった様子はないように見えた。

しかし、百合は正太郎から、どことなくよそよそしい雰囲気を感じ取っていた。

女の勘というべきか、遊女の感性というべきかは分からないが、百合の不安がなくなることは無かった

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