こうして、姉の不登校は始まり、そして同時に姉の身体に変化が生じた。


それは外から気づくのは難しい。


少なくてもすれ違うだけでは分からない変化だった。


けれど、それがいかに恐ろしい変化かというのは言うまでもない。

今日は涼しいんだね

扇風機に向かってだらしのない声を上げる私に姉がそう言ったのは、その年の最高温度を記録した真夏日のことだった。

姉は、感覚を失った。


頭が痛むのを嫌って食べられなかったかき氷を食べられるようになった。


ぬるいお風呂が好きだったのに、水を入れ忘れた熱湯風呂に気付かずに浸かった。


かつては痛みに敏感で、デコピンされただけでしゃがみこんでいたのに、タンスの角に足の小指をぶつけても何も言わなくなった。

こうした姉の変化に気付いたのは、私だけだった。


両親は「あの子、嗜好が変わったのかしら」と間の抜けたことを言っていた。


……それよりも重要な問題として、姉をどのように高校に行かせるかということを考えていたのもあっただろう。


だが、それでもこの変化に気付かないのは肉親としてどうかと私は思った。


何はともあれ、姉がそんな風になってから早半年が経つ。

姉はぶれなかった。


あれから一度も高校に通っていない。

出席日数が足りずに進級することも出来ないため、来年には私と同級生になってしまう。


暑かった夏も寒い冬も関係なくスウェットに身を包み、艶のある黒髪を乱雑に伸ばしっぱなしにしながら、部屋に籠って『私の嫁』という二次元のキャラクターにまっしぐらだった。


『愛するココロ』と私のことを呼び出したのは、姉に『嫁』が出来てからだった。


私が居て良かったと言ってきた。


少しだけ、嬉しかった。


どうやら私は姉にとって特別な存在であるらしい。


それはとても良い事であるように思われた。

私は姉に心を許していたつもりだった。

姉も私に心を許してくれていたと思う。


だから私は、今まで電車の乗換えや路上の声掛けが怖くて諦めていた、好きなアーティストの東京ライブに姉と二人で行ったり、姉が欲しいと言っていたイルカの髪飾りを姉の誕生日にあげたりした。


楽しかった。

素晴らしい日々だった。

けれど、一か月ほど前、両親が二人とも出張となったある日、姉が珍しく居間で絵を描いていた時のことだ。


姉の描いていた愛らしいキャラクターを見て、私もそれを真似して描いてみたことがあった。


姉の描くデフォルメされた絵とは違い、私はどうしても写実的な絵になってしまう。


けれど、なんとか描き上げて姉に見せてみた。


その時、私は姉の特性を忘れていたんだと思う。

 姉はそれを見て、一言、こう言った。

ああ……絵でも、敵わないんだ

え?

なんでもない

その何もかもを諦めたような乾いた笑みを見て、私は自身の行動を間違ったことに気付いた。


……違うんだ。


そんなつもりじゃなかった。


姉の絵と私の絵はこんなにも違うじゃないか。


姉の絵の方がよほど可愛くて、私は全然敵わないんだ。



だけど、その言葉を口にするには姉の口数が少なすぎた。


今、この言葉を口にしてしまえば、姉の残り少ないプライドを完膚なきまでに潰してしまう。


だって、姉は弱音を隠したのだから。


妹の私は、それを見透かしてはならない。

姉は否定するが、この時を境に、姉は私との関係にさえ線を引いたようだった。


私はそれを、踏み超えることができなかった。


それは私が、これまで生きてきた中で、こじれた人間関係というのは相手と同じ対応を取ることが最適だと学んできたからだ。


相手が距離を置くならば私も距離を置かなければならないと、そう判断したのだった。



そんな気まずいことも含めて、色んなことがあったけれど、姉と私はそれなりにはうまくやっていたと信じる。


あの出来事があってから、既に一か月も経過しているのだ。


あの出来事は今回の件に関係ないはずだ。


今日まで最低限、話すことはできていたのだから。



だからこそ、分からない。


姉はなぜ、『今日』死のうと思ったのか。


動機があっても、きっかけが分からない。


死のうと思った理由は分からなくもないけれど、なぜ今日なのか。


そこが分からない。


分からないままに姉に消えられるのは嫌だった。


私の人生にここまで深く関わってきておいて、今更何も言わずに消えるなんて、そんなの嫌だ。

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