姉は、一言で言えば不器用な人だった。


不器用、いや違う。ああいう人をなんていうんだろう。


性悪説を地でいく人。


善意を素直に受け取らず、必ずありもしない裏を読んで勝手に傷ついてしまう被害妄想じみた人。


それに加えて、負けず嫌いなのに変に上の方に目を向けて、自分に一切の才能が無いと勘違いをしてしまう人。


身の周りだけで考えていれば十分に才能を持っているのに、自分は何も持ってないと落ちこんでしまう人。




姉はそんな風に不器用な人で、だからこそ非常に息苦しい学校生活を送っていたのだと思う。


誰も信用することが出来ず、何も出来ない自分を悔やみながら、深海魚のようにひっそりと、日の明かりの満ちる眩しい教室の中で息を潜めていたに違いない。


実際には見たことが無くても、教室の隅で本を捲りながら、視界の端を通り過ぎるクラスメイトを見ないようにする姉の姿が目に浮かぶ。



サミシクナイヨ。
ツラクナイヨ。
ワタシハヒトリデダイジョウブダカラ。



姉は誰に言うでもなく自分自身に、そんなことを言い重ねていたのではないだろうか。


それでも姉は一生懸命に精一杯自分の義務を果たして生きようとしていた。


それなのに、姉が不登校になってしまったのは、それなりの事情ときっかけがあったのだ。



姉が不登校になった理由、それはよくある無視でもいじめでもなく、『喪失』だった。



まず間違いない事実として、姉は決して『出来ない』人ではなかった。


勉強も運動も、美術も家庭科も、人付き合いに至るまで平均的に出来る人だった。

だから、誰からも責められることはなく、だから誰からも褒められることもなかった。


そんな中で姉がぶつかった問題は、事故のようなものだったのだ。


誰にでも起こりうることで、誰もが乗り越えていけるような、問題にもならないような問題だった。


けれど、それが姉の身に降りかかったのは、不幸としか言いようが無かった。

あれ、私のシャーペンが無い!

嘘っ! あれ、サツキの彼氏からもらった大事なものでしょ!?

うん、うそー、無くしちゃったのかな……

高校2年、暑い夏のある昼休みのことだった、と私は全てが終わってしまった後で姉から聞いた。


隣の席の女子が彼氏からもらったという大事なシャーペンを見失ったことを騒ぎ出したのだと言う。


そもそもそんなに大事なものなら首にでもぶらさげておけ、とか、無くしたらその場で気づけ、とか姉は笑いながらそんなことを言った。


私もそう思う。
が、姉が強がりで笑い話にしていることはすぐに分かった。
姉の肩が、震えていたから。


とにかく、その後の展開は想像に容易い。

ねえ、夢環さん、私のシャーペン、知らない?

と、隣の席の女子、サツキという名前らしい、が姉にそう尋ねたらしい。


名前呼びではなく苗字読みのところが他人行儀だなとは思った。

けれど、視線を落としていた本から顔をあげて、サツキの不自然な笑い方を見てすぐに姉はその理由に思い当たった。

――ああ、私、疑われてるんだ。

馬鹿馬鹿しい。


姉の率直な感想はそれだった。


大方、いつも一人で本を読んでいて席から離れない私にはアリバイがないとでも思っているのだろう。


まるでフィクションの探偵のように万能感に浸っているのかもしれない。


本当に馬鹿らしい。


なぜ私が普段話したこともないような他人から物を取らなければならないのか。


動機がないじゃないか。


しかも、隣に座っていたって分かってしまうくらい溺愛されているシャーペンだ。


盗んだらすぐにばれて断罪されることが分かるくらいの想像力はある。


それを、私が盗むって? 


あり得ないってことくらい誰だって分かるだろ。

残念ながら、知らないね

本当に?

本当だ。嘘をついてどうする。
サツキさんが探してるシャーペンってあれだろ?
今流行ってる、ゆるめの猫がデザインされてるやつ。
興味ないけど、見つかったら教えてやるよ。

煩わしかった姉は、それで話を切り上げたつもりだった。


こういう話のときはとりあえず協力を約束すれば終わる、そう姉は思っていた。


次にサツキが紡ぐ言葉は当然『ありがとう、お願いね』の言葉だと思っていた。


だが、

……なんで、私のシャーペンのデザイン知ってるの?

と、引きつった表情をしたサツキを見て、姉は自分の考えが甘かったことを思い知った。

は? 隣で毎日のように自慢してる姿見てれば普通に覚えるだろ

夢環さん、ごめん、少し筆箱貸して

……分かったよ。ほら

気が済むまで探してくれ。


面倒になって、姉は席から立ち上がり、机をすべて見える状態にした。


実際に見つかることはないだろうし、今持たれている疑念を解決するためにはそれが一番だろうと判断したからだ。


しかし、

――あ

あ?

探し始めてすぐのことだ。


サツキは口をへの字にして、姉に右手を突き出した。


その手に握られていたのは、確かにサツキのシャーペンだった。


ゆるめの猫が欠伸をしたり、寝転んでいたり。今の緊迫した状態に合わないデザインが痛い。



――いや、ちょっと待て。

そんなことあり得るはずがないだろう。


しかも今、どこから出した。

机の中? なぜ? 


ありえない。

私は通学してから帰宅するまで用を足す時くらいしか席を離れないのに。

私が知らない物が机の中にあるはずないのに。

どういうこと?

そんなの、私が一番聞きたい。

姉には、本当に心当たりが無かった。

知らない。こんなのあり得ない

知らない? あり得ない? 実際に見つかっているのが証拠だと思うけど

ぐい、と近くまで詰め寄ってくるサツキ。


その圧迫感に姉は意識が遠のく感覚を得た。


言い訳をしようにも、それすらも思いつかないほど心当たりが無いのではどうしようもない。

姉は昼休みの騒然とした教室の空気が、だんだんと張りつめたものになってきたのを感じた。


周りの視線が私とサツキに集まってくる。

おいおい、なんだ、どうしたんだ。

どうやら夢環がサツキのシャーペンを盗ったらしい。

まじか。夢環ってそんなことするやつなのか。

ざわざわ。

ざわざわ。

まるで風が草原を駆け抜けるように喧騒が瞬く間に広がっていく。

説明してよ。どうして私のシャーペンを盗ったの?

知らない。私じゃない。

分からない。責めるサツキに姉は馬鹿みたいにその言葉を繰り返すしかなかった。


誰かに助けてほしかった。


でも、クラス中にこの問題が広がった今、もう自分を助けてくれる人が居ないことを姉は自覚していた。


この問題で姉がサツキに勝てるとしたら、こうなる前だけだった。


自分からクラスに干渉してこなかった姉と、クラスの人気者のサツキとでは纏う空気が違う。


例えサツキの方が間違っていたとしても、姉の言葉なんか誰も信じない。


体中に刺さるような視線を向けるクラスメイト達がその証拠だ。


お前がやったんだろ、どうしてこんなことをしたんだ、そんな皆の心の声が精神的苦痛となって姉を責める。

もう姉はどこも見ることが出来なかった。


自分の足元を見て、知らないうちに流れ出ていた涙を落としながら、それでもうわ言のように私は知らないと呟き続けた。


どうして私の言うことを誰も信じてくれないのだろう。


私はやってない。


悪い事は何一つやってないのに。


どうして私だけがこんな目にあわなければならないのか。


何か罰が当たるようなことをしただろうか?


姉は、これまでの人生、日々の生活だけで腐っていく心を必死にごまかしながら生きてきた。


その心が悲鳴を上げる。


お前は、こうなった今も、報われない今も頑張るつもりなのか、と問いかけてくる。


もういいじゃないか。


お前は十分頑張った。


もうやめてもいいんじゃないか。

 ――姉はこの時、その心からの問いに『YES』と答えてしまったのだ。

姉は、今までずっと頑張り続けてきた。


自分の存在意義を果たすため、ただそれだけのために、折れた心にその都度添え木をして頑張ってきた。


だけど、それが終わりになった今、分かった。


自分の存在意義は学生だとか、妹の姉だとかそんな肩書に依ったものではなく、どんなに悲惨な目にあっても頑張り続けてきた自分自身なのだと。


――添え木してきた心、そのものなのだと。


それが終わった今、自分自身の存在意義がなくなったことを理解した。



私の言うことは誰も聞いてくれない。


今感じている感情も誰にも届くことはない。



――私自身にさえも。



それなのに、私が何か言葉を発する意味があるのか。


周りで起こる幾多の事象に何かを感じる心は必要あるのか。


否、いらないだろう? 


私に心は必要ない。


生きていく、……その必要すらもない。

結局、この時の問題はあっさりと解決した。


もとより、誤解だったのだ。


姉の机にサツキのシャーペンが入っていた理由は、姉が用を足しに行っている最中に、落ちていたシャーペンを姉の物と勘違いし、親切心から机の中に入れた男子生徒が居たからだった。


もしこの時、その男子生徒が親切心を発揮しなければ、発揮したとしても机の中にさえ入れていなかったら、姉は高校卒業までずっと教室の中で息を潜めていられただろうに。


こうなった今、姉はそんな風にひっそりと過ごすことも叶わなくなってしまった。



問題が解決し、教室に当たり前のように談笑の雰囲気が戻った後も、暑い夏だというのに姉の逆流した血液がその冷え切った手足に戻ってくることはなかった。


忘れられなかったのだ。


サツキに詰め寄られた緊迫感も、クラスメイトから向けられた冷ややかな視線も。


彼らが視界に入るだけでフラッシュバックするくらいに、姉にダメージを与えたのだ。


こうなってしまったらもう、姉は教室の中には居られなかった。

姉がこの時喪失したもの。それは自身の存在意義と居場所だった。

姉が不登校になった理由

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