自動ドアをくぐると、眼の前の景色に想わず呟いてしまう。
自動ドアをくぐると、眼の前の景色に想わず呟いてしまう。
……変わらない
呟くと、耳に響くからか、実感も大きくなる。
あの当時のままの景色に、嬉しくなって微笑んでしまう。
本棚の配置も、そこに並べられた書籍の色も、わたしの記憶と重なった。
まるで、二十年近く前に戻ってしまったかのようだ。
少し歩いて、雑誌コーナーへ。
夫をつけていた時に隠れた場所も、そのままだ。
置かれている本は、もちろん見覚えのないものばかりだったけれど。
嬉しいな
時が止まっているわけではないのはわかる。
でも、昔を大切に残してもいる雰囲気に、わたしは懐かしさを覚えた。
平日の昼間なのに、お客さんは多かった。
おそらく、閉店というニュースをどこかで聞きつけて、訪れた人が多いのだろう。
わたしは情報誌で読んだけれど、今はネットやツイッターのようなものでやりとりしている人もいるだろうから。
少し店内に入って、本棚の列へ足を向ける。
昔と同じように、棚にはいろいろな本が並んでいて、微笑むけれど……途中で、苦みが増す。
立ち止まって、本と本の隙間へ手を入れながら、こんなに空いているのかと実感する。
減ったのね……こんなに
わたしが見ていた頃に比べて、棚の空きが目立っているような気がした。
子供の頃、わたしは熱心に自分で探すタイプではなかったはずだから、そんな人間でも気づくくらいには本の量が減っているんだろうと想える。
そう、ね。
なんで来たのか、ってことよね
想い返すことはたくさんある。
でも、この場所にはもう、新しく作られる記憶はなくなってしまうのだろう。
そんなことを想いながら、店内を進む。
……ぁ
ふっと、店の棚を整理する、女性の姿が眼に入った。
白くなり始めた髪に、シワの刻まれた手。
でも、本を見つめるその眼は、通っていた頃を想い出すようにまっすぐなもので。
心が、不思議に弾んだような気がした。
その勢いで、女性へと近づいて声をかける。
……こんにちは
かけたい言葉はたくさんあったけれど、最初の言葉は、じっくりと抑え込んだ挨拶にした。
こちらに気づいて振り返った女性は、柔らかい笑みを浮かべる。
いらっしゃいませ。
……あっ
挨拶の後、女性は小さな声を上げて眉を上げた。
少しして、同じような柔らかい微笑みを口元に浮かべてくれる。
あの頃と同じ、大人っぽい、落ち着いた雰囲気で。
お久しぶりです。
あの、覚えておられますか
その様子を見て、少しは安心したけれど、言葉を出すときは緊張した。
前に会ったのは、もう何十年も前のことだ。
なのに女性は、柔らかい笑みを浮かべたまま、何度も頷(うなず)いてわたしに話しかけてくれた。
えぇ、もちろん。
あの本……まだ、覚えてくれていますか?
はい!
ずっと、大切にしていますよ
元気良く答える声に、優しい目線で答えてくれる。
お元気そうで、あの、なによりです
ありがとうございます。
ただ、表に出していない部分は、たくさんありますけれど
そんなたわいのない話を少しして。
その視線が、わたしの左手へ移った。
……結婚、されたんですね
懐かしむような声に、わたしは頷(うなず)く。
はい。
彼と、一緒に
わたしの言葉に、女性はすぐに言葉を返さなかった。
代わりに、少しだけ眼を周囲へ向けて、なにかを探す仕草をする。
一緒に来られは、しなかったんですか
まだ、仕事がありますから
あぁ、そうでした。
今日は、まだそんな時間でしたね
恥ずかしそうに笑う女性の様子に、わたしも少しだけ合わせて笑う。
穏やかで、懐かしい空気。
だから、ずっと避けていた話題を、口にする。
本当に、もう、閉店されるんですか
……なかなか難しいところが、ありますから
苦いような、さっぱりしような、かすかな笑いとともに呟く女性。
記憶と重なる笑顔。
でも、その明るく柔らかい笑顔に、当時はなかった重みを感じてしまう。
(それだけ来なかった、んだろうし……。わたしが、わかるように、なったのか……)
本を差し出してくれた手は、今も変わらずにとても綺麗だったけれど、以前より堅くなったようにも見えた。
――目線が、同じような位置になったのも、今まで見えなかったものが見える理由なのかもしれない。
大きくなった彼の姿も……一緒に、見てみたかったのだけれど
残念そうな彼女の顔を見て、わたしは言う。
変わらないですよ。
彼は、彼のままです
親戚の子供達とふれ合い、友人の子育てを聞き、自分で子供を育ててわかったこと。
でも、あの当時のまま……な、ところも残っていますし。
まだ、大人になっていないような部分も、あるんですけれど
それは、振り切れなかったんだろう、夫が見せる陰。
気づいたのは、大学時代になってから、ようやく。
彼の心に、まだ、その陰があること。
わたしだけが知っている、あの日の約束の、消しきれない陰。
二人に来てもらうことは、叶えられそうにないのですか?
……あの人、あまり、本そのものを望まなくなってしまいましたから
――そうなってしまった想いを、整理できていないのだと、後になって気づいた。
わたしが、あの人を縛ってしまったのかなって。
そう想うこともあるんです
――最近、昔に振り払ったはずの悩みを、よく考える。
もし、あの時、あの場所で……わたしが、想いを告げなかったら。
夫は、眼の前の想い人に、きちんと別れを告げることが出来たのだろうか。
今の、どこか好きなことを避けているような、夫の姿にはならなかったのではないか……。
だから、あの人がもし、この場所に来るのだとしたら……それは、嬉しいことだと想います
そう口にしながら、わたしは……嬉しくなんか、ない。
そう、想ってもいた。
だって、わたしはその陰を……トゲを、抜くことが出来なかったのだから。
でも……ひどい話だとも、想っている。
だって、伝えられてもいない想いを、わたしは、女性に押しつけようとしているのだから。
彼……来て、くれるかしら
かすれた声で、女性はそう話す。
秋の枯れ葉のような、乾いた、寂しさを感じる声。
――そして、そんなふうに寂しいお姉さんの姿を見るのも、嬉しくない。
来ますよ。
来させます。
ですから……ちゃんと、見つけてあげて欲しいんです
それは、わたしからの願いでもあった。
彼の心のどこかにある、塗りつぶされた想いを払ってあげられるのは……わたしでは、ない。
ずっと想い続けている、というのは、美談だとも想うけれど。
それに縛られるのであれば、一緒にいる者には、辛い傷にも見える。
昔のように……あなたと、嬉しそうに話していた、あの頃のように
わたしの言葉に、女性は眼を少し開いて、何度かまばたきする。
不思議そうな反応を新鮮だと想いながら、わたしは言葉を続ける。
あの人が、この場所に来ていた、本当の理由を
夫がこの場所に来ていたのは、本を買うためだけじゃない。
でも、あなたに会いに来ただけでも、もちろんない。
――それらが入り交じった場所で、違う世界を覗く本を見つけてもらえたから、何度も足を運んでいた。
あなたと探して、自分で見つけた本を読む楽しさを、想い出させてあげてください
わたしの言葉に、女性は複雑な表情を見せながら、口を開いた。
彼の来るのが、夜なら……また、あなたにも会えるのかしら
期待するような響きだったけれど、頭を横にふる。
あの人がこの場所に求めていたのは、わたしじゃないと想うので
そう、なのかしら
そうですよ
――わかっているはずなのに、と想うけれど、もしかすると、本当はそんなことなかったのかもしれない。
女性にとって、この場所で本について話し合った、わたしや夫のような人々。
慈しむような日々と時間は、彼女にとって、それ以外の何かに発展するものではなかったのかもしれない。
『わたしは、あくまでこの本屋の店員であり……彼と、本のことで話をする。そういう、ことなんです』
ふっと脳裏に、彼女の言葉がよみがえる。
そう、最初から今に至るまで……お姉さんは、店員であり、変わっていない。
だから……お願いします
わたしは軽く頭を下げて、初めて、本を探す以外のお願いをした。
今日の夜、かつてあなたと本を探したあの人が、一人で来ると想うんです。
だから……ご面倒ですけれど、また一緒に、探していただいてもいいですか
頭を上げたわたしの眼には、戸惑ったような女性の顔があった。
でも、それは一瞬で変化して、柔らかい微笑みが顔に浮かんだ。
もちろんです。
かしこまりました
優しい笑顔は、わたしも好きだった、あの当時のままだった。
この笑顔に惹かれて、一時期、忘れていた。
あいつのことを気にせずに、通い続けていたこともあった。
(惹かれていたの、よね)
変わらない微笑みと、声。
そして、気を落ち着けるような本の匂い。
懐かしい景色に、当時の想いがわきあがり……。
客観的な今の自分が、問いかける。
――淡い想いがあったのは、誰に対してなのだろう。
あの時にショックを受けていたのは、本当に、彼だけだったのだろうか。
もしかしたら……と、少女のような想いをはせるのは、この場所があまりにも以前と同じだからだろうか。
(そう考えられるのも、もう、過去になってしまったからなのかな)
今の自分だって、全てはわからないのに。
過去の自分なんて、どうやっても、わかるはずがない。
だからわたしは、様々な想いを一つにまとめた、ある言葉だけを口にした。
……本当に、ありがとうございます
飾りや化粧をすれば、いくらでも形にはなるけれど。
それはもう、今のわたしがしてしまう、余分なものでしかないのだ。
――あの当時の、憧れと嫉妬。
それはもう、色あせて、遠くなってしまった。
(何年、経ったんだろう)
今のわたし。
夫と子供の帰りを待ち、自分の仕事もこなさなきゃいけない、慌ただしい自分。
それを意識すると、子供の顔と夕食の準備が、頭に浮かぶ。
あっ、そうだ
挨拶をすませ、すぐに帰ろうかと想ったけれど。
子供用に一冊、なにか買っていってもいいですか
手ぶらで帰るのも悪いと想い、お願いする。
夫に似たのか、子供は早くから本を読むことに興味を持ち始めていた。
ええ、もちろんです
彼女と共に、児童書のコーナーへ。
あまりこちらには来たことがないから、少し新鮮だった。
本棚に眼を通して、何冊か手にとり、めくっていく。
そのなかで、わたしの眼を惹いた本があった。
あ、これ……懐かしいな
一冊の、ちょっと古めかしいカバー。
わたしが子供の頃、あいつの家で一緒に読んだ、数少ない絵本の一つ。
子供の頃、よく読んだな……
二人の夫婦が、いろいろな危機を乗り越える話。
たまに頼りなくなる夫を、支える妻の活躍がとてもかっこよく見えた。
――もう、あいつの本棚に、この本はなかったと想う。
夫の本棚には、しばらく、会社で使う実用書ばかりが並んでいる。
だからわたしは、彼女に向かって言った。
これ、貰えますか
……ふふっ
口元を押さえて微笑む彼女に、わたしは驚いてしまう。
あ、あれ、なにか可笑しいですか?
どうして笑われたのか気になって、そう聞いてしまう。
いえ、その……嬉しくて
嬉しい、ですか
ええ。
その本を選んで、懐かしいと想っていただけたことが……とっても、嬉しいです
彼女が浮かべる満面の笑みに、わたしのなかの疑問も息を潜めた。
この本を、彼女もとても好きなのだろう。
そう、想うだけで、わたしも嬉しくなったからだった。
じゃあ、この本を……わたしの子も、楽しんでくれるといいな
ええ。
その続きは、もう、ここでは買えませんけれど……
申し訳なさそうに言う彼女に、わたしは、言った。
でも、続きが欲しいと言うなら、読ませますよ。
それが、ここでなくても……だって、読めないなんて、悲しいじゃないですか
……そうですね。
ぜひ、そうしてください
――そうして購入した、最後の本。
それを夫に見せ、複雑な笑みを浮かべた理由を聞いたのは、少し後のこと。
夫とその本との最初の出会いが、どこだったのか。
この時のわたしは、想像することもできなかった。
――唯一、懐かしそうに表紙を見つめる、彼女だけはわかっていたのだろうけれど。
ありがとうございました
彼女に会計をしてもらい、店を出る。
すみません、見送ってもらって
いえ
最後に、彼女の個人的な携帯番号を聞いて、登録する。
当時はまだ、こうして携帯の番号を交換するだなんて想像もできなかった。
あと、まさか教えてもらえるとは想わなかったので、嬉しさを隠すのにも必死だった。
あまり出れないかもしれませんけれど
いえ。
無理を言ってすみません
想ったより長い時間いたせいで、そろそろ帰らないとまずくなっていた。
忙(せわ)しないわたしの背中に、彼女は、静かに言った。
……お幸せに
染み込むような、彼女の声。
わたしは彼女に向かって、静かに、伝わるように答えた。
はい。
ずっと、あなたのおかげで……幸せです
――彼女は、学(まなぶ)だった夫と、どんな話をするのだろう。
でもそれは、わたしが出会った彼女と、違う時間のお話だ。
……また会う時は、違う場所で
そう、別れ際に呟いて。
わたしは、母として過ごす家へと、車を走らせる。
そして、車中で看板を見送りながら、自分の陰が薄れていくのを感じていた。
だからわたしは、前へ向かって、走り出す。
淡い少女時代の想いへ、別れを告げながら。