――そんな一時があってから、少しの季節を経て。
 わたしと学(まなぶ)は、恋人同士になった。

 もちろん、恋人になって終わりじゃない。
 大変な日々が、めまぐるしくやってきた。

 約束したように、いろいろな場所へ行った。
 わたしの知っている場所、知らない場所。
 学(まなぶ)の見つけてきた場所、苦手な場所。
 お互いに、一緒にいるのが、どこか当たり前のようになっていった。
 でなければ、慌ただしい日々を越えられなかった。

 今振り返れば、そう想う。

 推薦、試験、進学、新生活、アルバイト、就職。
 どれもが大変で、新鮮で……今までの考えを変えるくらい、刺激的でもあった。

 楽しかった、時ばかりじゃない。

 でも、何度も遊び、数えられないくらいケンカもして、一緒に涙を流しながら……わたし達は、それらの日々を過ごしてきた。

 幸せ、と言っても、いいんだと想う。

 学(まなぶ)――今は、夫となった彼――はいつも、違う考えのわたしを支えるように、ずっと側にいてくれた。
 大会で結果が出せない時も、親と意見が食い違った時も、望みの大学に合格した時も、就職活動で悩んだ時も……ずっと、ずっと。

 一緒に、同じ歩幅で歩いてくれる人。
 彼も、わたしも、次第にそうなっていった。

 だから、指輪をはめてくれた時は泣いてしまった。もう、声もでないくらいに。
 子供も産まれ、結婚生活も安定してきていた、そんな時だった。

 ――何気なく眼に入った記事に、記憶を掘り返されてしまったのは。

これ……本当、なの?

 忙しさの中で、忘れていた。
 地元情報誌の片隅で、その記事を見るまでは。
 ――驚いたことに、わたしも夫も、いつしかお互いにその本屋へ行かなくなっていたから。
 結婚してから色々な場所に出かけたけれど。
 その本屋へは、お互いに寄ろうと言ったことがなかった。
 印象的な看板を見かけ、ふと感じ入ることはあったけれど、中に入ったのはもうずいぶんと昔のことだ。

(ひどい、話)

 振り返れば、今のこの日常があるのは、あの人のおかげである部分も大きい。
 なのにわたしは、お礼の言葉を言うことも、食事に行くことも、ましてや結婚式に呼ぶことも、なにもしていなかった。
 プライヴェートな接点を持つことなく途切れてしまったから、仕方のないことではあるのだけれど。

……知って、いるのかしら

 わたし以上に、幼かった日からあの場所を大切にしていた、夫のことが気にかかる。
 でも、彼もまた、本屋へは近寄ることがなくなっているように見えた。
 それどころか、最近は本を読んでいる様子が減っているのも、知っていた。
 だから、知らないのだろう、と想う。

(昔は、ちょっとした時間があっても、読んでいたのに)

 今は、本を読んでいる時間より……わたしや子供と共に、休日のウォーキングに喜んで出かける方が多い。
 ……変わらないものなどないと、わたしに教えてくれたのは、何の本だっただろうか。

……

 手元の情報誌を、リビングのテーブルの端へ置く。
 そこへ置いておけば、夫がそれを手にとるクセがあることを、わたしは知っていたから。
 ――それを見て、少しでも、あの当時の横顔を想いだしてくれてもいいんだけれど。

 子供が学校から帰ってきて、陽が暮れ、部屋の明かりをつける時間。
 夕食の準備も進んできた頃、車が駐車場に入るのがわかった。
 少しして、玄関の開く音。
 仕事に疲れたであろう夫が、会社から帰ってきた。
 その後は、いつもの家庭の時間。
 お風呂やリビングでの食事をすませ、子供が自室へ戻り、夫婦だけの時間が出来た頃。

……!

 イスを引く音が響いて、洗濯物から夫へと眼を動かす。
 立ち上がった夫の手には、見ればさっきの地域情報誌がつかまれている。
 だから、眼に入っている記事も、予想は出来る。
 たぶん、さっきのわたしも、同じような顔になっていたはずだから。

どうしたの?

 演技する気分で私は聞くけれど、夫はなにも言わず、自室へと駆けだした。
 様子が気になって応接間を出ると、外着に着替えた夫が部屋から出てくるのが見える。

ちょっと、出かけてくる!

 息が荒いのは、急いで準備したからか、それとも心が落ち着かないからか。

どこへ行くの?
もう、遅いけれど

 夫がどこへ出かけるのかを理解しながら、わたしは聞いていた。
 あくまで、表面上は驚いたように装っていたけれど、心は冷静だった。
 ただ、今の彼は、そんなわたしの様子に気づいてはいないだろう。

……だよ。
今日、閉店するらしい

そう、なんですね

 聞こえてきた夫の答えと、不安そうな顔。
 悪いことをしているわけでもないのに、その顔は、ひどく後ろめたいように見えた。
 ――それは、あなただけじゃないのに。
 だから、わたしは薄い微笑みで罪悪感を隠して、お互いの不安を和らげようとした。

いってらっしゃい。
そうね、たまには昔みたいに……両手いっぱいの本を、買ってきなさいよ

いいのか

一度だって、わたしは……好きな本を買っちゃいけないって、言ったことはないわよ

 家計を圧迫するほどは困るけれど、と付け加えるのは忘れないけれど。
 わたしの言葉に彼は、なにか感じるものがあったのだろうか。

そう、だな。
そうだったな……

 驚いたような顔を浮かべた後、ぎこちない笑顔でそう答える。
 微笑んで気持ちが落ち着いたのか、あることに気づいたように顔を変えた。

一緒に、行かないか。
会わせたい人が、いるはずなんだ

 彼の言葉に、わたしは首を振った。

あなた一人で、行ってきて。
明日の準備もあるし、あの子を一人にするわけにもいかないでしょう

 三人で、と言い出しそうな彼に、わたしは言い聞かせるように言った。

いいのよ。
わたし達じゃなくて、あなたに行ってほしい。
あの本屋も……そう、想ってるんじゃないかな

 そこまで言って、ようやく夫は決心が付いたようだ。

行ってくる

 車のキーを握りしめ、玄関を開けて、出かける様子を見送る。
 もう、わたしの方を、振り返ることはなかった。

(昔みたいに……一人でいることを、優先しはしないのね)

 ――知らず、自分の存在が、彼に違う考えを持たせていたのだろうか。
 あの人と一緒になっていたら、夫は今も、本を読む時間を過ごしていたのだろうか。

(でも、それは……空想がすぎるわ)

 その未来は、もう通り過ぎてしまった、ありえない過去でしかない。
 現実は、空想の世界以上に、うまくいかない。
 なのに、とても奇妙。

 巡り合わせの関係に想いをはせながら、子供部屋へと向かう。

――まだ起きているの?

 まだ自室から音がするのを、注意しなければならなかったからだ。
 遊びたい盛りなのはわかるけれど、夜更かしを習慣化しても良くない。
 ……注意した時、わたしの部屋の本を読んでいたから、ちょっと怒るのも気が引けたけれど。
 子供が渋々ながら電気を消してくれたので、階下へ戻る。
 食器を洗って片づけながら、明日の準備などを行う。
 毎日繰り返す、日々の行い。
 手慣れた手つきでこなしながら、その間に、当時のことを想い出す。

 ――あの人には内緒の、わたしとお姉さんだけの、秘密の時間。
 わたしにとって、あの本屋は、違う自分を見つけてくれた大切な場所だった。

 だから、誘いを断った。

 心は揺れたけれど、一緒に行くのは、気が引けた。
 わたしがかつて、あの人と過ごした時間。
 それを振り返る、今の想い。
 それは、夫とあの人が過ごした時間へ、重ねてはいけないと想っている。

 ――わたしは、夫を騙しているのだろうか。

 それとも、騙したくないから、本当のことを言えないのだろうか。

 明日の朝食の準備や、食器の片づけ、服の整理を終えたわたしは寝室に戻る。
 夫と一緒の寝室に、あまり自分のものはない。
 服や小物などは別の部屋だし、日々の娯楽も子供が中心だからだ。
 でも、ふと、小さく置かれた本棚に眼が向かう。
 ここへ二人で移ってくる際、実家から持ってきた本や、新しく買った本。
 当時の本はほとんど残っていないけれど、初めて感動したあの漫画だけは、ずっと片隅に残っている。

(忘れたわけじゃ、ないんです)

 背表紙を見ながら――今日の昼間のことを、想いだす。
 それは、さっき想いだしたお姉さんとの記憶より、ずっと新鮮で新しい景色。

 そう。わたしはもう、別れをすませてしまっていた。
 あの人と、あの本屋に。

視界の広がるあの場所で・19

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