息を切らせながら、学(まなぶ)は苦しそうに言う。
背中へ声を聞きながら、まだまだ余裕のわたしは、振り返って言う。
……な、なに考えてんだ、死ぬぞ……
息を切らせながら、学(まなぶ)は苦しそうに言う。
背中へ声を聞きながら、まだまだ余裕のわたしは、振り返って言う。
死なないわよ。
わたし、自主トレでよく走ってるもの
でも、こっちの方はあまり来ないからな……意外に、この坂、辛いんだな
学(まなぶ)の家とも、わたしの家とも、ちょっと違う方角の道。
この辺りでは有名な進学校へと続く道を、わたし達は歩いている。
その道は、山道を舗装したような急な坂になっていて、その学校の生徒達も不満を言いながら登校してるって聞く。
でもその坂道は、適度な距離と角度から、ウォーキング好きに親しまれているのでも有名だった。
だから確かに坂は急だし、少し走ろうとは言ったけれど。
(……体育、苦手だったの、本当だったんだね)
……想ったより、学(まなぶ)の体力が少ないことに、わたしも驚いている。
……お、お前、自分と同じだって、考えるなよ……
ぜーはーと荒く息を吐いて、呼吸は全然おちつかない。
ね、やっぱり普段から運動しないと大変なんだって
心配してそう言うけれど、学(まなぶ)はひらひらと手をふるだけ。
こ、こんな運動する環境に、ないように生きるよ……
……もしかして学(まなぶ)、こっちの学校行かなかったのって
違う、違うぞ!
決して体力がないとか、そう言うんじゃないからな!?
その点には深く聞かずに、わたしはまた坂の上へと視線を戻した。
走り慣れた道。わたしは、この道をたまに歩いたり、走ったりする。
でも、今日来たのは、違う目的。
なんでだ?
質問の意味がわからず、一瞬きょとんとしてしまう。
なんで、って?
わたしのその様子に、焦ったような声で学(まなぶ)が言葉を続ける。
ここに、来た理由。
まさか、あっちの学校に用があるのか?
……なんでって、あぁ、そういうことね。
ううん、違うよ
この道は主にその学校へ行く人が多いけれど、もちろん、道は他のところにもつながっている。
他には……この先って、なにがあったっけか
周囲に眼を向けながら、目的地を考えているんだろうなって学(まなぶ)の姿。
一緒に行くということばかり考えていて、理由を告げるのを、すっかり忘れていた。
不安そうな顔を安心させるために、できるだけ、優しく声をかける。
ねぇ、こっちに来て
いや、もうきついんだけれど
誘いの言葉に、一歩足を引く姿が見える。
大丈夫、もう走らないから。
ゆっくりで、いいからさ
目的地は、近くなってきている。
大きな学校の門を横に見て、そのまま進む。
バス停や休憩所、小さな喫茶店、昔からありそうな服屋さん……。
この先って……
……お待たせ
――そうして坂道を上がった、山の街の外れに、わたし達は到着する。
そこは、森を切り開いて造られた、小さな公園だった。
けっこう昔からある、特に目立つところのない場所。
遊具も普通だし、景色は高台だからいいはずなんだけれど、周囲に林や森があるせいで、今一つぱっとしない。
落ちないように作られた柵も、その原因かもしれない。
人影は少ない。
これは今日に限ったことじゃなく、いつものこと。
ここに来るには、さっき登った坂道はどうしても通るから、あんまり小さい子供やお母さんなどの姿は見えない。
さっきの学校の子達もいるらしいけれど、進学校の子達だからか、あまり遊んだり遅くまではいないみたい。
今日は、ランニング姿をまとった男の人や、小学校高学年くらいの男の子達が見える。
つまり、あんまり人気はない場所でもある。
ここで、どうするんだ
ぱっと見て、普通の公園以外のなにかに、見えないような場所。
だから、そう聞いてくる学(まなぶ)の気持ちは、すごくよくわかる。
わたしは、指をさしながら、足を進めて答える。
ほら、こっちこっち
整地された公園の端、森の奥に踏み込まないように造られた、柵の列。
その列の端、ちょっと見では気づかないところ。
こっちは……あれ?
意外そうな声をあげる学(まなぶ)。
公園の端は安全のため、外周に柵が作られている。
その柵がなくなる一番端の、その裏側。
実はそこに、小さな細い道がある。
そしてその先は、辺りの森のなかへとつながっているのよ……そう、わたしは話す。
意外と気づかないのよね
ここって、入っていい場所なのか?
学(まなぶ)は不安そうな声で聞いてくる。
大丈夫、と強くは言えなかった。
今から行こうとしている場所は、確かに、あまり進入していい場所ではないのかもしれない。
周りをよく見れば、大丈夫……だけど。
足下に、気をつけてね
注意する言葉をかけて、わたしは森の方へと向かう。
おい、これって
昔は柵もなくて、迷っちゃう人も出たから、隠しているようにしたんだって
教えてくれた先輩からは、そう聞いている。
だから、早くここに来たかった。
小さな小道は、木々のせいで先がよく見えないけれど、それは曲がりくねった道のせい。
進入禁止……
眼に映った看板の文字を、学(まなぶ)が呟く。
気になったけれど、足は止めない。
聞かれれば、答えるつもりだったけれど。
少し先を一度曲がって、すぐ先に――出口。
ありがとう。
着いたよ
目的地にたどり着いて、わたしは学(まなぶ)を開けた場所へと案内する。
これは……
一気に広がった視界に、学(まなぶ)が眼を開く。
――その表情を見て、想わず微笑んでしまう。
驚いては、くれたようだから。
こんな場所、あったのか
公園の端っこ、道とも言えない先にある、この場所。
安全のために設けられた柵は、ここにもある。
やっぱり、迷い込んだ人のために、造られているのだろう。
でも、ここが閉ざされないのは、ここから見える景色がとても綺麗だからだと想う。
なにせ周囲の街を空から眺めるような、とても広くて大きな世界が見えるから。
ね、とっても良い景色でしょ
先輩に教えてもらった穴場。
ちょっぴり危険はつくけれど、その見返りはとっても大きい。
昔は柵もなくて、事故も多かったから、今は知る人ぞ知る場所になっているらしい。
だから、基本的に進入禁止の立て看板もあるし、公園のマップにも書かれていないのだ。
危ない場所でもあるんだけれど、どうしてか、来てしまう理由もわかる。
けっこう、ここ好きなんだよね
肩の高さくらいの柵に寄りかかりながら、街を見下ろす。
柵の隙間からだから、ちょっと見づらいけれど、ぐるりと見回す景色はやっぱり綺麗だった。
何度か来て、見慣れてしまったのも事実だけれど。
自分の眼で、広い世界が見えるのは……やっぱり、新鮮だったりする。
……そうだな。
なんか、壮大だ
同じように柵から下を見て、学(まなぶ)が呟く。
あまり調子は変わらないけれど、感情が出にくいのは知っているから、これでも驚いているんだろうな。
そうよ。
だから、あんたにも見て欲しかった
この、景色を?
うん、と頷(うなず)いてから、わたしは柵から身体を離して学(まなぶ)へ向き直る。
今だけしか、見れないかもしれないから
今だけ……?
呟いてから、あぁ、と学(まなぶ)は一言。
危険だからか。
あの柵は、もしかして途中なのか
うん。
この柵も、もっと高くなるかも。
危ないから、閉じようって話もあるって聞いたし
こんな良い景色の見える隠れスポットだけれど、立ち入り禁止にした方がいいって意見もあるみたい。
わかる気もするし、どうしてって気もする。
でも、もしかすると、と考えたら、今の内に見ておきたくなった。
自分だけじゃなくて、一緒に、見てほしい人と。
わたし、わかったの
わかったって……
本の中にも、いろいろな景色があるんだなって。
あんたが見ているのは、そういう、今ここにないものなんだって
……最近、やたら本を読んでるように見えたのは、そういうことだったのか
う~ん。
好奇心、ってことだったのかもしれないけれど
それから、少し無言になる。
嫌だった?
風もない、静かな景色は、声がよく通った。
嫌って、なにが
わたしが、本を読み始めたこと。
……あんたの好きなものに、入ってくるの
学(まなぶ)は、少しためらい。
顔を少しずらしてから、口を開いた。
嫌じゃ、ない。
正直、嬉しかったのは、ある
そう。
わたしも、嬉しい
それに、だ。
本を読む読まないで嫌っていたら、いろいろ問題あるだろ。
俺、誰ともつき合えなくなっちまう
そうだね。
そう言われれば、そうかも
(……入っちゃったのは、それだけじゃない、んだけれど)
心のなかだけでそう呟いて、あの人のことは、口に出さない。
代わりに、今日ここに来た理由を、一気に話す。
だから、わたしも教えてあげたかった。
この場所でも、ステキな景色があるって……見つけて欲しいな、って
この、場所って……ここの景色のことか?
ううん、そうじゃなくて。
本以外の、なんていうのかな……現実っていうもので、かな
なんで……そう、想うんだ?
本の中の知識や、想像も、楽しいけれど。
やっぱりわたしは、今が好き
ぎゅっと両手を、腰の前で組み合わせて。
自分に言い聞かせるように、学(まなぶ)へと呟く。
今の自分が、試せる時間……それって、今しかないから。
だから、本だけじゃなくて、あんたにもそうしたものを見つけて欲しいなって想ったの
どうして、俺なんだ?
……それ、はね
――あなたと一緒に歩く時間を、もっと、過ごしたいから。
世界は広くて、あんたを見ている人も、いっぱいいるってことよ
……見ている人が、いっぱい……
呟く学(まなぶ)の顔を見ていると、自分の言った言葉が、頭のなかで再生される。
(……うわぁ……)
ここに来てまで、わたしは正直になりきれなかった。
面倒な自分は、変わりきっていないのかも。
――わたし、あなたをずっと、見ていたよ。
そう、言えなかった。
ごまかすような言葉に落ち込みながら、学(まなぶ)の様子を見続ける。
できるだけ、表面へ出ないようにしながら。
少しすると――ゆっくり、学(まなぶ)が口を開いた。
俺を、見ている人がいるのは、知ってる
えっ……?
真剣な声。
低くて、丁寧で、冗談を言わない彼。
その、いつもと比べても……それは、とても深くて、重い言い方だった。
だからわたしは、眼を見開いて、意識を持っていかれてしまう。
見ている人って……なに?
今日、俺の様子を見てくれていたから、だろ。
……ありがと、な
わたしの誘いの理由を、彼は気づいていた。
ごくり、と喉を鳴らして緊張を解こうとする。
(……あれ?)
ふと、わたしの脳裏に、ある景色が浮かぶ。
――それは、つい先日読み終わった、あの本の内容だった。
(高台の、夕暮れで、好きな男の子とって……最近読んだ小説に、あったシーンじゃん!)
らしくもなく恋愛小説なんか読んだら、そんなシーンが印象的ではあった。
『ここって、あそこに似てるかも。学(まなぶ)って、あの景色知ってるかな……?』なんて、想ったりもしていたけれど。
(でも、だから誘った、というわけじゃなくて。
落ち込んでいそうな学(まなぶ)を元気づけようと想っていただけで……!)
そうして恋愛小説のことは忘れようとするけれど、次から次へと甘いシーンが浮かんできてしまう。
本の中のかっこいい少年の役は……なんで、なんで学(まなぶ)に変換されてしまうのか。
(で、でもでも、学(まなぶ)がそんなこと言うわけが……!)
そのシーンの先は、小説のクライマックス。
だから、学(まなぶ)が、そんな言葉を言ってくれるはずはない……!
そう、想いもするけれど。
かすかに、頬が熱くなっているのが、わかる。
ゆっくり、学(まなぶ)の口が開くのを期待してしまうほどには、小説のそのシーンが気に入ってもいたのも本当。
心臓がすごい勢いで鳴って、どうやったら収まるんだろうって、不安ばかりが大きくなる。
(まさか、こうなることを見越して……?)
……優しくて大人の彼女から勧められた、違和感のある一冊。
それがまさか、こんな形でつながってしまうなんて。
もちろん、そんなエスパーじみたこと、できるわけない。
そう、想いもするけれど。
――それくらい、いろいろな考えが頭を回って、学(まなぶ)の言葉を期待してしまう。
(ど、どどど、どうしよう……!)
と、暴れるわたしの胸中へ向かって、学(まなぶ)は口を開いた。
前までは、気にしてたけど……今は、気にされてるって、わかってたんだ
(それって……もしかして)
それは、予想もしていなかった展開を、想像する言葉。
お互いの想いが、すれ違っていただけ――。
そう考え、わたしの熱が、さらに上がってしまう状態に……彼は、言葉を続けた。
すっと、眼を伏せながら。
だから、ごめん