あの日から、少し経って。
 わたしは、その姿を見つけて、話しかける。

――元気、ないじゃない

 図書室で静かに本を読む姿に、できるだけ普段通り、冷静に。

いつもどおり、だよ

 学(まなぶ)の答える声も、あまり変わらない。
 感情が薄い、抑えたような声。

そう。
なら、いいんだけれど

 ……でも。
 最近は、あまり聞かなかった声。
 あの人と話すほどではなかったけれど、わたしと話す時も、最近はちょっと弾んだような声になることがあった。
 だから、普段通りにしているつもりなんだろうけれど、あまり明るい気分でないのがわかってしまう。

(ちょっと前のわたしなら、そんなに暗くてどうすんの、くらい言っていたかも)

 ある意味では、その普段通りの言葉を、学(まなぶ)は欲しいのかもしれない。

 ――今日の朝、どこかぼんやりとした顔で、本も読まずに過ごしていた学(まなぶ)の姿。
 ずっと教室で見つめながら、わたしも、わかっていた。
 その言葉を、もう、いつも通りに言えなくなってしまった……自分の変化を。

面白いの、その本

あぁ……そうだな

 そう答えてくれるが、どこかぼんやりとしている。
 見ていれば、本を読む速度が、とても遅い。
 らしくない。
 そもそも、ページをめくる様子がない。
 ……読んで、いないのかもしれない。
 バッグをイスにおいて、教科書やノートを取り出す。

勉強、見てもらってもいいかな

いいけど……

 ためらうような学(まなぶ)の声。

だめなら、いいけど

だめじゃないが……そうだな。
どのあたりが、わからない?

えっとね……

 それからわたしは、各教科でわからない部分を上げていく。
 解き方がわからない数式や、理解できない現代文の解釈、覚えられない過去の歴史のつながりや、魔法のような単語の並ぶ科学の世界などなど。

どうしてこんなにわからないことだらけなの……よ?

……ふっ

あ、どうして笑うのよ

 学(まなぶ)の小さな笑い声に、不満を言う。
 すると片手を立てながら、学(まなぶ)は苦笑して言った。

すまん。
ただ、変われば変わるものだなって

えっ?

そもそも、わかろうとしなかった……って言うと、悪いけれど。
前のお前は、そうだった気もするから

……そうね。
それは、自覚してる

100円に対しての消費税、わかるか?

108円……

ちょっと、バカにしてるの

いや、ちょっと前まで答えられなかっただろうよ

うっ、それはそうだけれど

……だから

 一瞬、言葉を止めた学(まなぶ)の顔は、とても優しい。

すごいなって。
なにがあったか、わからないけれど

……学(まなぶ)?

変わる自分を受け入れられるのは、すごいよ

 そして、視線をわたしからそらしながら、弱々しく学(まなぶ)は言った。

……偉そうに言いながら、変わらないことを望んでいたのは、俺だったのかもしれないな

 その言葉の意味は、よくはわからなかった。
 だからわたしは、当たり障りのない言葉で、聞いてみる。

悩み事、あるの

……ないよ。
大丈夫だ

 嘘だ、と言うことは出来なかった。
 そうなんだろうな、と想ってはいても。
 なんとなく、わたしもわかっていたからだ。
 ――悩むことが出来ないことを、悩み事とはいわないことを。

すまない、独り言をしたな。
まだ、聞きたいことはあるか

……そうね

 がちゃ、と筆箱にシャーペンなどをしまうわたしに、学(まなぶ)は不思議そうな眼を向けた。

おい、今日の分の勉強はまだ……

 慌てる様子でそう言う姿に、一言。

走ろう

 はっきり、すっきりと、言った。

はっ?

 手元のバッグへ、広げたばかりの筆記用具やノートなどを片づける。
 学(まなぶ)の驚く眼を見つめながら、また理由をさっぱり言う。

行きたい場所があるの

いや、でも……

 荷物を入れ終えたわたしは、一息吐いてから、今度はゆったりとした声を出す。

お願い。
一緒に、来て欲しいの

 そしてゆっくりと、手を差し出す。
 ――あの人が、本を差し出してくれたのと、同じような姿を意識して。
 怯える心を抑えて、差し出したその手。
 学(まなぶ)は、驚くように見つめていたけれど。

……わかった

 イスから立ち上がり、そう言ってくれた。
 差し出した手は、そのまま自分に戻したけれど。
 学(まなぶ)の瞳と足が、わたしの横に立ち、一緒に歩いてくれることになったから。
 心のなかは、ぎゅっとした気持ちで満たされて。

 ――それから二人で、いつもの帰り道でない、ある場所へ足を向けた。

視界の広がるあの場所で・16

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