だから……つい、気がゆるんで。
 もう一つの泣いた理由を、言ってしまった。

でも……お姉さんは、ずるいです

ずるい、ですか?

特別じゃなくても、他とは違う……
それは、ずるいことです

そう言われると……困り、ますね

ごめんなさい。
そうですよね……すみません

 謝りながら、でも、手を堅く握って。
 柔らかいハンカチと、包まれる手に、甘えるように。
 かすれるような声で、続けてしまう。

でも、やっぱり、そうです。
ずるいです

 特別だと想われながら、お客である、と言われる彼。

彼、気づいてないんですよ

 それを知らずに、嬉しそうに微笑む姿が、頭に浮かぶ。
 ずっとこの場所で、大切な人と過ごしてきただろう、大切な時間。
 それを想像して……勝手に、わたしは言葉を続ける。

本が好きって気持ちと、本のことを話せる楽しさと、お姉さんと会える喜び……みんな、混じっちゃってるんです

 一つの場所で、全部解決する。
 わたしは、違った。
 部活もがんばって、彼の姿を知らず眼で追って、お姉さんにいろいろ話を聞いてもらって……分散している。
 でも、学(まなぶ)は?
 本当に、一つが、全部じゃないの?

だから、ずるいです。
そうして、わかっているのに、触れないのって

 わたしは、一方的に、話し続ける。
 ――触れてしまえないことを、さっき、教えてもらったばかりなのに。

わたしだって……お姉さんに、こんなにしてもらって

 ぎゅっと、手元のハンカチの柔らかさを、また握りしめる。

……ずるいです。
優しすぎて

 そこまで一気に言ってから、口を閉じる。
 勝手な話を、ずっと、してしまったと想う。
 言われた方も、どうすればいいのか、困ることばかりだと想えもした。
 でも、お姉さんはただ、聞いてくれた。
 わたしの言葉を、はいとも、いいえとも、言わなかった。

私は、優しくありませんよ

 その声を聞いて、頭を上げる。
 いつもより、なにかを抑えたような声と、少しだけ苦い表情。

彼が望むような……この店の本では、ありませんしね

この店の、本?

 どうしてここで、本の話が出てくるのだろう。
 不思議に想って、聞き返したわたし。
 お姉さんは、わたしの手元にあった恋愛小説に触れながら、口を開く。

本は、書いている人の鏡……人生の一部を映したもの、と言われることもあります

インタビューとか、自伝とか、ですか

それも、そうですけれど……

 上手く言葉にできない、のだろうか。
 こんなに言葉を探す姿が始めてで、わたしはただ、見つめることしかできない。

……書かれている中身も、そうですし。その、書かれたり作られたりしている裏にも、やっぱり、人がいると想うんです

裏って……紙とか、印刷したり、とか?

 言われてみれば、いろいろな人の活躍や頑張りがあるから、ああした本が出来ている。
 漫画でも、小説でも、情報誌でも、インタビューをまとめる人でも……。
 一冊の本は、いろいろな人の想いがあって、ようやく一つの形になっているのかもしれない。

もしかすると、彼には……この場所で出会った私も、一冊の本に想えているのかもしれませんね

……え、えっと……?

 とはいえ、想像を超えるようなお姉さんの言葉に、わたしはどう答えればいいかわからなかった。

そ、そんなことはないと想いますけれど

 そうは言って、みるけれど。
 お姉さんは、その考えを止めるようなことは、言わなかった。

でも、もちろん、私は本ではありません。
それに、もし私のなかの文章があったとしたら……自分にも、たまに読めないものがあるのだと想います

(自分のことは、読めない……)

 お姉さんの言葉は、難しくて、よくわからないところがあった。
 ――後々ふりかえった時に、想ったことがある。
 この時のお姉さんも、実は動揺していたんじゃないかって。
 それくらい、お姉さんは。
 自分を選び、理解してくれる人を、わたしに伝えようとしていた。
 不自然なくらいに。

自分でも、読めないなら……他の人には、彼には、もっと読めない。
……そういう、こと、ですか

 できるだけ頭を使って、お姉さんの言葉を理解しようとする。
 頭のなかに、なぜか英語の教科書の文例が、ずらっと出てくる。
 言葉なんだけれど、意味がわからなければ、読む方も読まれる方も困惑する。
 あの時の気分に、似ていたからかも。

読むことは、できるとも、想います

読むことは、できる……?

ただ、そこになにが書かれているか、本当の意味はなにか……

 そう答えるお姉さんの言葉は、やっぱり、わたしの考えとそう変わらないのかもしれない。

……私のなかの文章を、私にとって読んでくれる人は……もう、別に、いるんです

 ――学(まなぶ)のための本を、お姉さんは、選び続けた。
 ――でも、お姉さんのための本を満たしたのは……学(まなぶ)では、なかった。
 ――たぶん、そう、言いたいのかもしれない。

彼は、読んでも……

 学(まなぶ)の様子を想い返しながら、お姉さんの話を混ぜながら、わたしは言う。

違い、ますね。
……彼、まだ、読ませてくださいとも……言っていない、んですよね

 わたしが告げていないように。
 学(まなぶ)も告げていない。
 だから、今は――わたしが、お姉さんを困らせているだけ。

あの……ごめんなさい

 それに気づいて、わたしの口は自然に開いていた。

いえ。
……お気持ちは、落ち着かれましたか

 ここまで、幼い私の問いかけに付き合ってくれるなんて……この人は、だから、勘違いをさせてしまうんだろう。
 でもそれは、この人のせいだけじゃない。

……私ね、一人っ子なんです

 突然、お姉さんがぽつりと言う。
 どういう意味かわからなくて、言葉の続きを待つ。

だから、楽しくて、嬉しかったんですよ

楽しくて、嬉しかった……?

彼が成長して、本を探してくれて、自分の考えを持つようになって

 柔らかい眼をもっと細めて、お姉さんは考えるような顔になる。
 想い返しているのかもしれない。
 学(まなぶ)と会ってから、今、彼と話し合った時間を。

弟がいれば、こんな感じなのかなって……。
おかしい、ですよね

 漏れ出た言葉は、少し揺れているように想えた。
 それは、店員としてではない、お姉さんとしての言葉なんだと……わたしは、勝手に想えてしまった。

(だから、それ以上じゃ、ないんだ)

 自分は、店員でしかないんです――そういう言葉の、ちょっと裏にある、違うお姉さんとしての想い。
 わたしはそう感じながら、聞いた。

……彼に、いつ、言われるんですか

自分から、言う気はありません

……

 冷静な顔のまま、お姉さんは続けた。

わたしは、あくまでこの本屋の店員であり……彼と、本のことで話をする。
そういう、ことなんです

 同じ言葉を重ねるように、お姉さんは口にする。
 さっき、少しだけわたしへ伝えてくれた想いへ、蓋をするかのように。

もちろん、彼と語るのが、嫌なわけではありませんが……

でも、それは……この場所で、語るから、ですよね

そうですね……
それが、わたしが彼と過ごした、時間ですから

 ――それ以上になろうとするには、学(まなぶ)は、走る時間が違いすぎたのかもしれない。
 でも、開催日すら遠く離れた会場へのゴールに、たどり着くのは……とても、難しいのだろう。

……彼に、読まれたいと……想われますか?

 唐突に言われたその言葉に、心臓がどきりと跳ねる。

それって、どういう意味、ですか

 見抜かれたような、射抜かれたような、お姉さんの視線。

お互いに読みあうように、この世界とつなげるには……ご自分で動くしか、ないと想うんです

……そう、ですね

 それは、わたしが教えられたこと。
 お姉さん――店員さんの薦めで、変わり、受け入れて、わかったこと。
 だから、今もそれは……続いているんだと想う。

動くのは、得意ですからね

 ぎこちない笑みなのはわかっていたけれど、わたしは顔にそれを浮かべて、明るそうにする。
 でも、わたしへ返される微笑みが、いつもより暗そうに見えたのは。
 はたして、見ているわたしのせいなんだろうか。

……お帰りに、なられますか

 わたしは頷(うなず)いて、小さな声で「そうします」と答える。

あの……ありがとう、ございました。
ハンカチ……

大丈夫ですよ

 洗濯して返そうと想っていたのに、お姉さんはすっとわたしの手元からすくい取る。

で、でも……

また、来ていただければ、それだけで十分ですから

……はい

 奪い取るわけにもいかず、頷(うなず)いて、休憩室を出る。
 そのままレジへと向かい、ずっと手に持っていた恋愛小説のお金を払う。

ありがとうございます

あの……いろいろ、すみませんでした

 レジに戻った店員さんの様子は、もう、いつも通り。
 さっき、休憩室で見せてくれたような、不安定な様子はもうなかった。

(大人の人って……そう、割り切れるものなのかな)

いえ。
またのお越しを、お待ちしております

はい。
……また

 複雑な気持ちを抱えて、わたしはその日の店内を後にした。
 それが、学(まなぶ)のことを想ってなのか、彼女との距離を感じてのことなのか、ごちゃごちゃしてわからなかったけれど。
 ――昔から、学(まなぶ)が大切にしていた、憧れの本。
 学(まなぶ)はもうすぐ、その本が、新しい章へ変わるのを読むことになるのだろう。
 それは、理解できたけれど……その部分を読むことで、どんな気持ちになるんだろう。
 わたしには、全然、想像することもできなかった。
 でも、それは……彼にとって、読み進めることが出来ないものなんじゃないのかって、そればかりを考えていた。

 ――恋愛小説は、とてもステキな物語だった。

 けれど、そこから受けた苦さと甘さを、あの人に告げることはなかった。

視界の広がるあの場所で・15

facebook twitter
pagetop