もし、この人が全てに気づいていたなら。
 学(まなぶ)が、隣にいて欲しいと。
 そう願った人が。
 あいつのことばかり見ている、わたしに気づいて。
 初めから、お姉さんが彼と一緒に、走っていないのだとしたら。

本を、探しに来たんじゃない……。
気になる人の、好きなことも理解できないわたしに、どうして……

 ――見ているばかりで、押しつけるばかりで、相手のことを聞こうともしていなかった。
 そんな、わたしに。
 学(まなぶ)は、わたしがなにをしているのか見ていて、間違いも教えてくれていたのに。

どうして……

 かすれた声を出すと、眼の前のお姉さんと景色が、にじんだ。
 子供の頃以来、練習でどんなに辛くても流さなかったものが、今は溢れそうになっている。

……こちらを

 そっと、柔らかい感触が手に当てられる。
 少しだけ、顔にある手をゆるめる。
 清潔な匂いの、花柄のハンカチ。
 ふんわりした手触りにすがりたくて、そのまま眼に当てる。
 じっとりと、その柔らかさが、わたしの涙で濡れていくのがわかった。

……

 わたしの背へ軽く手を添えながら、「少し、よいですか」と声をかけてくれるお姉さん。

 ゆっくりと歩きだしたのがわかったから、わたしもそれにあわせて足を動かす。
 顔と手は、動かせずにそのまま。
 目元にたまった涙を、こぼれ落ちないように必死だったから。

調子が悪くなられたようなので、休憩室で様子を見ます

 ……お姉さんの声が、耳に聞こえる。
 おそらく、他の店員さんに言っているんだろう。

(迷惑、かけちゃったな……)

 そう想うけれど、大丈夫です、とも言えなくて、そのまま手を引かれる。

 つないだ細い手は、暖かくて、柔らかかった。
 目元のハンカチと、同じくらいに、心地よかった。

 少し歩いて、ばたん、という音が耳に聞こえる。
 手に誘われるままに腰を下ろすと、イスらしき感触があった。
 ここまで来て、ようやくわたしは目元からハンカチを離すことができた。

 まだ、濡れてはいるけれど……溢れてくるものが収まっているのは、わかったから。

落ち着かれましたか

 にじんだ視界に見えたのは、さっきまでと同じようにこちらを見つめてくれる、大人の女性の瞳。

はい……あの、ごめんなさい

 ぎゅっとつかんだハンカチを見せながら、わたしは言葉を漏らす。

あの、ハンカチ、ありがとうございます。
きちんと洗濯して、お返ししますから

 上品で綺麗な刺繍が入った、大人っぽいハンカチ。
 お姉さんに、とてもよく似合う。

いえ、お気になさらないでください

で、でも……

 優しくしてもらったのに、甘えっぱなしだなんて悪い気がする。

あ……の

 感謝した方がいいのか、謝った方がいいのか。
 言葉を選んでいると。

どうして、本をご紹介したのか……でしたよね

本を、ご紹介……?
あ、ええ……と

 話しかけられた話題に、わたしはなんのことか、頭が追いつかなかった。
 ふりかえって、そうだ、と想い出す。
 どうして自分が、こんなことになってしまったのかを。

そ、そうですね。
だって、わたし……

 また溢れそうになる、目元。
 それを必死で抑えながら、心のなかの言葉を掘り返して、言葉にしようとする――

『――本が目的じゃ、なかったんですよ。
 この店のこと、どうでもよかったんですよ』

 ――そう、言ってしまおうとしたわたし。
 でも、お姉さんは、言わせてくれなかった。

あなたが、この場所に来てくれたからです

えっ……

 いつもの優しい瞳とは、ちょっと違う……。
 そう、お母さんや、先生のような、大人の視線。
 まるで、言い聞かせるような顔と声で、言ってくれた。

この場所に来ていただいたあなたに、本を紹介する。
私は、そのために……この場所に、いるんです

 ――わたしが、この場所に来たことを、受け入れてくれている。

で、でも、わたしは……あの子から、話を聞いていて

私はあくまで、この場所で本のご相談を受けるだけの……店員でしか、ありません。
それ以上でも、それ以外でも、ないのです

……っ

 ――理由は、わからないけれど。
 その言葉に、わたしの背中が、少しふるえた。

ですから……もし、お客様が、変わられたなら

 そっと、濡れたハンカチを持つ手が、綺麗な指先に包まれる。
 暖かい熱が伝わり、心臓の鼓動はあがるのに、変に落ち着いた気持ちにもなる。
 ……夢を見るって、こんな心地なのかな。

それは、お客様ご自身の努力なんです。
なので……この場所に来られたことを、ご自分で、否定なさらないでください

 お姉さんの言葉は、すごくしっかりしたもの。
 名前も知らない、お客の一人であるわたしへ、あまりに優しすぎる。
 だから、胸に上がってきた、泣き出しそうな熱をおさえながら……わたしは、うつむいて答えていた。

ありがとう、ございます

 学(まなぶ)との仲を疑って、考えて、でも、なにもしなかった。
 それは、いろいろ考えたり意見を言ったりするけれど、相手のことを考えない練習メニューと似ているのかもしれない。

(ぶつかって、ばっかりだったんだ)

 でも、そのぶつかりも……この場所のおかげで、優しくしてもらえた気がする。

わたし、いろいろ教えてもらえて……本当に、嬉しかったんです

私も、楽しかったです

 どうしてか、わたしは今初めて、ようやくお姉さんという人と話せたような気持ちになっていた。

視界の広がるあの場所で・14

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