えっ……

 だから、驚いてしまった。
 結婚、だなんて言葉、普段は聞くものじゃなかったから。

そ、それって、その彼じゃないんですよね

はい。
もう、何年も付き合って、婚約した方がいるんです

そう、なんですか……

 頭に入ってきた単語が、残ってしまって、うまく反応できない。
 改めて、お姉さんの顔を見る。

(違う……)

 眼に入ってきたのは、さっきまでと同じ、お姉さんの顔。
 でも、なめらかな唇をかすかに微笑ませ、ふんわりした頬をゆるめた、その微笑は……。

……

(学(まなぶ)や、わたしに見せてくれる顔と、違うんだ)

 それに……とても綺麗に、見えたから。

あの……おめでとう、ございます

 わたしは、どこかぼんやりした心地で、そう答えていた。

ありがとうございます。
あの、気を使わせてしまいましたね

いえ……。
わたしこそ、プライヴェートなことなのに

 相手の私生活に気を使わなすぎて、反省する。
 お姉さんの顔に怒っている様子は、なかったけれど……わたしが、今の言葉を聞いてよかったのかは、やりすぎな気もした。

彼には、まだ、伝えてないけれど

彼って……

 困り事を考えているみたいな、声の低さに、わたしは問い返す。

……それは、誰のことですか?

 お姉さんの言葉に、混乱していたのもあった。
 お姉さんの彼氏のことだろうか。
 でも、わたしが知っているはずもない人を、話に出すだろうか。
 それに、婚約してるのに、婚約を伝えてないのも変な話になっちゃう。
 わたしの様子から、お姉さんは指先を伸ばして、ある一角を指さす。

雑誌コーナー……スポーツ系の、あたりでしたか

……?

 全然違う話をふられて、さらに頭が混乱するわたし。

あそこから、ずっと見られていましたよね

 ――そしてその言葉に、混乱が違うぐちゃぐちゃを生んで。
 お姉さんの冷静な言葉が、なにを指しているのか。
 わたしの頭は、どうしてか答えを見つけてしまった。

えっ、っと、う……!

 驚いて、うまい返答が浮かんでこない。
 声をかけられたのも、目立っていたからなんだって、今になって気づく。
 ――初めて会った時から、この人は、わかっていたのかもしれない。

初めて見た時から、気にはなっていたんです。
立場上、格好も気になっていたんですけれど

うっ……

 想いかえして、恥ずかしさがわき上がってくる。
 振りかえれば、サングラスにハンチング帽だなんて、漫画みたいなコーディネイト。
 なにより胸が落ち着かないのは、自分に対して。
 変装までして、会いたいだけなのをごまかしもして、ましてや二人の様子を覗き見するなんて。

(……最低じゃない)

 ――もしかすると、それを気づかれていたかもしれない、なんて。
 自分への情けなさと、隠し事をされていたことと、でもそれはやっぱり自分のせいであることと。
 落ち込んだわたしに、お姉さんは優しく微笑む。
 その顔を見るのが恥ずかしくて、つい、眼を背けてしまう。

もしかすると、って想って、注意はしていたんですね。
本屋にとって、いろいろと気になるものも多いですから

万引きとか、イタズラとか、そういうのですよね

はい。
疑ったのは、申し訳ないと想っていますけれど

 ごめんなさい、と、お姉さんの声が聞こえる。
 そんな必要、全然ないのに。
 わたしは急いで顔を戻して、なにかを言おうとするけれど。

彼と話しながら、あなたの動きも注意していたんです

 それよりも先に、お姉さんの言葉が続いていた。

でも、すぐにわかりました。
その視線の先は、ずっと変わらなかったから

……変わらなか、った、ですか?

 はい、と頷(うなず)くお姉さん。

あなたが来るのも、彼が来る時だけ。
そして、本じゃなくて、彼と私に視線が向けられているって

 ――出会う前から、お姉さんは、わたしをずっと見ていたんだ。
 わたしが見る、二つの視線の先に、気づかないふりをしながら。

どうして、彼に言わなかったんですか

 少しだけ眼をふせて、お姉さんは答える。

それは……私が、干渉することではないですから

 干渉することでは、ない。
 ――それは、もちろん、そうなんだろうけれど。
 じゃあ、と想った口が、自然に開いていた。

ポタッ……

そんなわたしに、どうして

どうして、本をすすめてくれたんですか

視界の広がるあの場所で・13

facebook twitter
pagetop