その日は、生憎の天気だった。雲が空を覆い、太陽の光を遮っていた。
その日は、生憎の天気だった。雲が空を覆い、太陽の光を遮っていた。
俺、谷口勇気は、今年大学を卒業し、昨日都会へ引っ越して一軒家を購入した。新しい見た目の割には、驚くほどの格安物件だった。
不動産の女性が、「もう一人検討中の人がいて、本日中に返事を頂く予定です」と言っていたので、焦る様に契約した。
一夜明けた今日。昼間こそ雲が多かったが、夜になると月の光が差し込むほどには天気は回復していた。
俺の部屋の中にも月明かりが差し込んで来る。
月を見ようと、俺はベランダへ向かったんだ。
そこに、男か女かも分からない、こちらを覗き込む人影があった。
だけど、すぐに消える。だから俺は、気のせいだと割り切ってベッドにダイブした。もう、ベランダに向かう気にはなれなかった。
これが全ての始まりだった。布団の中で、スマートフォンを使いこの一軒家についての記事を探す。
そして俺は、見つけてしまったんだ。
事 故 物 件
父、母、娘の三人家族がここには住んでいたらしい。しかし、父が母(彼にとっては妻)と娘に頻繁に暴力を振るっていたそうだ。
耐え切れなくなった母は、ついに行動を開始した。
父と娘の目の前で、彼女は自ら首を切り裂いて死んだそうだ。
そのショックで父親はパニック状態に陥り、500百メートルほど離れた場所で、車に轢かれて死んでいたという。
警察が駆け付けた時には、死体が転がっていた部屋は血の海になっていたらしい。
しかし不思議なことに、死体の首から上と、娘の姿だけが、今でも確認されていない・・・とのことだ。
そこまでネットに挙がっていた記事を読んで、俺の意識は深い闇に落ちて行った。
目を覚ます。
どうやら電気を付けたまま眠っていたようだ。
あー、まだ眠いな
もう一度寝ようと思い、電気を消すために入り口のスイッチを押しに行く。
そして気付いた。
あれ? 体が動かない・・・
金縛りだ。
聞いたことはあったが、実際に経験するのは初めてだった。
さっき見た記事のせいだろうか。心のどこかで、あの家族が化けで出やしないかと、恐れてしまっているのかもしれない。
一旦落ち着くために、辛うじて動く唇を開き、深く深呼吸をする。
——人の気配を感じた。
ベランダの方角。俺の足元付近に、得体の知れない不気味な気配を感じ取ってしまった。
体に力を込める。ぷるぷると、指先が僅かに震えた。その指に意識を集中させ、自分のふくらはぎへゆっくりと移動させる。
指で足の肉を挟み、思い切りつねる。
いっってえーー!
痛みで金縛りから解放され、俺は勢いよく体を起こす。
視線の先にベランダを遮るカーテンが映り——
部屋の電気がいきなり消えた。
な、何なんだよ一体!?
再び体が強張る。動くことが出来なかった。
昨日は車や虫の鳴き声など、うるさいくらいに聞こえていたのに、こんな時に限って耳の痛い程の静寂が辺りを包む。
再び明かりが灯る。
気付けば俺は、ベッドの隅っこに体を縮込ませていた。小刻みに体が震えていた。
勘弁してくれ!!
無理にでも奮起するように、大声を出して部屋の扉を閉める。
——あれ? 部屋の扉はさっきまで閉まってはいなかっただろうか?
嫌な予感がした。俺は恐る恐る首を回し、もう一度扉の方を振り返る。
また部屋の明かりが消えた。
もう、金縛りなど関係なく、恐怖で身がすくんで力が入らなかった。
完全に密閉されたこの部屋に、冷たい風が流れ込む。その冷気が頬に当たる。まるで、凍ったような指に撫でられたようだった。
まま
目を閉じていると、さらに恐怖が増すことに気付き、ゆっくりと瞼を押し上げる。
何も見えなかった。ただただ真っ暗闇が広がるだけだった。
ほっと胸を撫で下ろす。塞いでいた耳から手を放し、小さな溜息をついて、
——まま。
耳元でそんな声が聞こえた。
ひっ!?
咄嗟に悲鳴を上げ、ベッドから体が落ちる。
身の危険を感じる。だけど、身体は動かなかった。助けを呼ぼうにも、さっきから声を出そうとしている口は、ただ虚しくパクパクと動くだけだった。
背後に異様な気配を感じながら、足をばたつかせる中、俺は救いの声を聞いた。
——ゆうき?
母さん!?
やった。助かった。その声で体の震えが止まった俺は、一気に開いている扉めがけて足を踏み出して、
——あれ? 扉はさっき閉めなかったっけ?
また、身体が動かなくなった。足が床に縫い付けられたかのように全く動かなかった。
——まま。まま
背後からそんな声が近づいてくる。こんな時でも、足は動かないのに何故か首は動くのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
俺の意志とは関係なしに、声のする方へ振り返ってしまう。
黒い少女が座っていた。絶対に普通の人ではない。だけど不思議と、恐怖は感じなかった。理由は分からないけれど、心なしに可哀想だと思ってしまった。
そうしてこれも俺の意志とは関係なく。俺の口から一人の名前が零れる。
優希ちゃん・・・
呟いて、すぐにハッとなる。これは、この名前は。この家の記事に載っていた、あの家族の娘の名前。
そうか。だから俺は、可哀想だと思ってしまったのか。
薄明かりが灯る。
黒い少女と向き合うが、やはり恐怖はない。俺はゆっくりと彼女の元へ向かい、
そして彼女は立ち上がり言った。
「まま」
また、身体に緊張が走る。ぷるぷると小刻みに震えた。足に力が入らない。
思い出す。俺は昨日、実家から一人都会に進出したのだ。だから、母なんてこの家にいるはずがないのに。
背後の開きっぱなしの扉から、異様な気配が漂う。
覚悟を決め、ゆっくり、ゆっくりと、恐る恐る首を回す。
その先に——
宙に浮かぶ首。それを見て、俺の意識は暗闇に沈む。
その後の事は、覚えていない。