心の片隅では、まだ、お姉さんへの複雑な気持ちを持ってはいた。
心の片隅では、まだ、お姉さんへの複雑な気持ちを持ってはいた。
こんにちは
いらっしゃいませ。
本日は、どのような本をお探しですか
それでもわたしは、練習が少ない日や、たまの休日にその本屋へ行くことが、楽しみになっていた。
理由は、お姉さんと話してみたいのが一つ。
それと、あんまり自分に負担にならないくらいで、今までとは違う種類の本を読んでみようと想ったのがもう一つ。
――その二つは、とても新鮮なこと。
ふりかえれば、自分でも不思議だって想えるくらい、それまでの自分とは違う興味を持っている時間だって想う。
……この本の、このあたりのことが気になっちゃって……
なるほど……。
それでは、こちらの本はいかがでしょうか
お姉さんに、いろいろな本を薦めてもらい、少しずつだけれど読んでいった。
最初は、わたしの好みと少しズレたような本もあった。
……?
よくわからなくて、頭が痛くなったこともある。
けれど、お姉さんの選びが当たるようになったのか、それともわたしの頭がちょっとだけ慣れてきたのか。
次第にそういったことも少なくなって、わたしは、なんとなくでも本を眺めるのが楽になっていった。
少し前に、本棚が怖いだなんて想っていたのが、嘘みたいに感じる。
……あまり難しい字は、今も苦手だけれど。
でもなにより、一緒に話し合える人がいる。
気に入った本を、教えあえる。
そんな相手がいるのは、とっても嬉しいことだった。
友達と遊んだり、新しいお店に行ったりしていたのと、似ているけどちょっと違う楽しさ。
――お姉さんと話して、今まで知らなかった、違うことを考えていると……逆に、部活で走っている自分が、どこか遠くに感じる時がある。
(……あの頃は、ぶつからなかった、のかな)
ふと、部活に入ってある程度を過ぎた頃に、仲が良くなった友達と練習メニューを組んでいた時を想い出す。
少しだけ意見が違うけれど、同じ目的に向かって、時間を作る楽しさ。
あの頃の自分と、今の自分。
その二人は、同じわたしなんだけれど、少し距離を持って考えられるようになった。
……どうしてその二人が、今、一緒にいられないのか。
わたしは、ちゃんと、あの子の意見を聞いていたんだろうか、とか。
(これも、本を読むようになった、せいなのかな)
前より、ちょっと考えてものを見るようになった気がする。
……するだけ、だけれど。
最初は漫画が多かったけれど、次第に人物の自伝や、雑学などの本、ちょっと避けていたファッション系の本も改めて眺めるようになり。
そうしているうちに、本を読むってことが、そんなにイヤじゃなくなっていることに気づいてしまった。
そして、イヤだった理由も、今ちょっと読めてしまっている理由も、わかってしまった。
(わからなかったから、じゃなくて……)
……?
お姉さんが横にいる時、わたしは、ぽつりと自然にもらしていた。
わたし、全然知らないで……避けちゃっていたんですね
この本屋も、自分のやっている以外のことも、お姉さんのことも。
学(まなぶ)が本を楽しみながら、読んでいる理由も。
部員のみんなが、自分達の考えるバランスで、目標に向かっているのも。
わかろうと、していなかったのかも、しれません
本当は、知らずにいて、楽をしようとしていたのかもしれない。
――色々な考えが、あるってことを。
部活のことも、あいつのことも、自分のことも。
それはみんな、たくさんあるうちの、一つの考え。
でも、その一つの考えは、とても大切なもの。
本を読み始めてから、ちょっと考えるってことを、考えるようになったわたし。
(走ることの方が好きなのは、変えられないんだけれど)
その好きなことにも、影響は出ていた。
実際、他のスポーツや、身体の仕組み的なものもちゃんと調べると、自分の考えがすごく片寄っていたんだと反省した。
それで、少し変だった部分を直しただけでも、記録が良くなったのは嬉しかった。
つい、この間のことだから、すぐに想い出せる。
ストップウォッチの音と、告げられた数字に、小さくガッツポーズしたことを。
(そう、ちょっとだけど、変わっていってる)
淡々と告げられた数字を、心の中で喜んだわたし。
その耳に、ふっと入ってきたのは、ずっと前を走っていた先輩の声。
……よかったじゃない、記録
あ、ありがとうございます!
先輩の、小さな誉め言葉に、わたしは満面の笑みで感謝をする。
どうしてか、いろいろと物思いをするようになって、部内の空気も変わっているのがわかった。
私自身も少しだけ、周りを見るように意識するようにしたのも、あるのかもしれない。
先輩達の表情をよく見たり、後輩達の動きに注意したり。当たり障りのない範囲で、協力したり、アドバイスをしたり。
……以前みたいに、部活のこと以外も話すほど、戻りきってはいないけれど。
(前からこうなら、もっと、ちゃんとできたのかなぁ……)
そんな後悔を持ちながら、わたしは、お姉さんに会いに来ていた。
そうして少しずつ、気づいたことや想ったことを、話しかけていた。
告白、していたのかもしれない。
そんなわたしへ、お姉さんは本を整理しながら、話しかけてくれる。
もう、知っているじゃないですか。
そんなに、ご自分を責めることはないと想います
詳しくは言っていないけれど、わたしが悩んでいるように、お姉さんには見えていたみたい。
それが、最近は少なくなったみたいだって、言ってくれていた。
今の言葉も、そう想ってくれているから、なのかもしれない。
……そう、ですね
わたしも頷(うなず)いて、そう考えるようにする。
悩んでいても、なにかが変わるわけではないのだから。
それに今のわたしは、部活以外にも、楽しみが増えたのが嬉しくてしょうがない。
もちろん、第一は部活の方だったし、友達との遊びもあり、お金にも制限があったから、そんなにいつも来ていたわけじゃなかった。
ただ、お姉さんと話す時間は、他の時間とおなじくらい嬉しいものだったのも本当だ。
もちろん、お姉さんの仕事の邪魔にならないように、気は使っていたつもり、だけれど。
(でも、気を使われているのは、わたしなのかも)
学(まなぶ)とブッキングしないように、店内の様子などを確認しながら来店してもいた。
何度か、店内ではち合わせしそうになったこともあるけれど。
見つかりそうな時は不思議と、あいつからは見えない位置に移動していることが多かった。
すみません、今日はここまでで。
またのお越しを、お待ちしております
……!
そう言って、お姉さんはあいつのところへ話しかけに行く。
(……わかって、るのかな)
お姉さんの笑みは、優しくて、嘘がないように想える。
ただ、学(まなぶ)とその本屋で出会わないことは、不思議で奇妙なことだった。
お姉さんって、まるでエスパーみたいですよね。
あまりにも、勘が良すぎますよ
自分の悩みを聞いてくれたり、学(まなぶ)との関係に気を使ってくれたり、なのにそれを表に出さなかったり。
お姉さんの大人っぽさを、わたしはそんな言葉でしか表現できなくて。
それは、どういう意味でしょうか
不思議そうな顔で、逆に問い返されてしまう。
あっ、えっと……
両手の指を戸惑うように合わせながら、わたしは答えを探す。
そう言った理由を話すのは、逆に無神経みたいで、言葉に詰まる。
するとお姉さんは、あぁ、と一言。
転生もの、だんだん流行ってきていますね。
雑誌で、かつての自分を語るコーナーも人気のようですし
……たまに、お姉さんの言っている意味はわからない。
読んでみますか?
……でも、本当に、優しい人。
はい。
ちょっと、試してみます
そうして差し出される本は、いろいろな世界を持っていた。
気に入ったのは、自主練習用のマニュアルや、スポーツ選手の自伝、今流行っていることを特集した雑誌とか。
このあたりは、今までのわたしも、なんとなく読める本達だったから、納得。
でも、お姉さんのすすめる本は、もっといろいろだった。
漫画なんかもあったし、物事の考え方を考える本や、学校の勉強をわかりやすくまとめた本なんかも教えてくれた。
本物の試合みたいな熱気を感じる漫画や、想わず感心してしまう不思議な雑学本、将来のことを考えるための手引書なんかもあって。
写真を見たり、スポーツの話題を読むのは好きだったけれど、それとは違う本も面白く読めた。
自分が選んでいたら、知らなかった世界。
わたしは、いろいろな見方や世界があるんだなってことを、本を通じて教えてもらったのかもしれない。
あっ、でも、この前の本まだ読みきってなくて……また、今度でもいいですか
ただ、全部は読めなくて、断ることも多かった。
もともと、文字をたくさん読むと疲れるような人間だったのだから、今の状態が変ではあるんだけれど。
毎回毎回、違う本をすすめてくれるお姉さんに、わたしは時計を見ながら聞いていた。
お姉さんの一日は、いったい何時間あるんですか?
ぜったい、二十四時間以上ありますよね
いえ、同じ二十四時間だと想いますよ
わたしのその言葉に、お姉さんが苦笑していたのを覚えている。
でも、その言葉は嘘だって想えちゃう。
だって、お姉さんの返す答えは、いつも自分の考えがあって、読んでいないと分からない内容にも触れてくれるしで、驚かせてくれたから。
おかげで――わたしの部屋にも、少しだけれど出来てしまった。
学(まなぶ)の部屋のそれを見て、関係ないなと想っていた場所。
ぬいぐるみなどのグッズをよけて、本のスペースが出来る日が、来ちゃうなんて。
想い返しながら、わたしは重い声で言った。
罪深いです、お姉さん
えっと……私、お客様になにかしましたでしょうか?
はい、されました
面白い世界がいろいろあるって、お姉さんのおかげで、教えられてしまいましたから
怒ったフリをして言うわたしの仕草に、お姉さんはふふっと小さく笑ってから、イタズラっぽく言った。
まだまだ、たくさんありますよ。
だってここは、あなたの知らない世界が、たくさん記されている場所なんですから
楽しそうに語るその言葉に、わたしは前回の本の感想を返していた。
――わたしの知らない、知識とたくさん出会える場所。
知らない内にわたしは、お姉さんと本との出会いを、楽しみにしているようになっていた。