幼い少年は、生まれてすぐに家族が亡くなり、たった一人の執事とのみ暮らしてきた。

 少年の家族は、両親と、寝たきりの祖母が一人。少年が生まれてすぐ亡くなったのだそう。教えてくれたのは執事だ。

執事は、家族のいない少年にとって唯一の知人だった。家族代わりと言っても過言では無い。

 しかし、少年には、執事を家族とまで呼ぶことが出来ない要因があった。

ミシェル坊ちゃん

何だい? ステファン

 執事ことステファンに声をかけられ、少年ミシェルは踵を返す。

お足元、お気を付け下さい

 ステファンの忠告を聞いた後、ミシェルは足元を見る。すると、足元では黒い蜘蛛(クモ)がガサガサと動き回っていた。

ああっ! む、むし!! ステファン、む、虫だよ

 慌てるミシェルを、数秒黙って見つめていたステファンだが、やがてしゃがんで体を屈めると、懐から殺虫スプレーを取り出し、それを無視へ噴射。虫はコロリと倒れこんだ。そうだ。今思えば、あの無感情のステファンですら、虫をスプレーで対処していた。素手でやっつけたナキは、相当強者である。

有難う……

いえ。以後、お気を付け下さい

 ステファンは、ミシェルの下を去って行った。

 ぼんやりと明りの付いた薄暗い廊下に、一人取り残されるミシェル。幾ら執事と言っても、親のいないミシェルを狙う者などおらず。十歳になった今、大抵のことは執事の手を借りるまでもなく出来るようになっていた。今手を貸してもらうことと言えば、背の届かない場所の作業か、虫の退治くらいだ。

 ステファンが去るのを確認すると、ミシェルはふぅとため息をつく。彼といるのは、気が重かった。

 そもそも、ミシェルの両親が亡くなったのは、何者かによる他殺であった。それも、ミシェルとステファンの住むこの屋敷で起こったことである。

 周辺の噂によると、その時期はとある殺人鬼がうろついていたと聞く。その人物は赤黒いコートをまとい、いつも事件現場をうろついていたそうだが、誰も正体を突き止めるまでには至っていない。

 殺人鬼による事件は、その頃一か月で三十を超える死体が出たと言う程。この事実は、多くの人を震え上がらせた。

 両親が亡くなったのに、赤子であるミシェルが狙われなかった理由は、ミシェル本人も分からずにいた。ステファンに聞いても、そこまでは知らないと言われるのみだった。

 しかし、ミシェルは、ステファンに少しずつ疑念を抱くようになっていた。

――もしや、ステファンが殺人鬼なのでは?

 ステファンがミシェルを育て始めた丁度その頃、殺人鬼による事件はピタリと止んだそう。

 それまでは随分と激しく事件を行ってきたそうだから、そろそろ警察に見つかるかもしれないと、姿をくらましたのだろう。

 だとすれば、まだその人間の秘めたる欲情は残っているはずだ。人を殺したい。と言う欲情が。

 そしてそのターゲットとなる身近な人物。それこそが、自分だ。

 ミシェルが幾ら彼を疑おうと、証拠が無ければそれを立証することは出来ない。ならば、今自分の命を守れる方法。それは、此処から逃げ出すこと。ミシェルは、密かにこの計画を進めていた。

 近所に住む、知り合いの老人へと、どこか良い家を紹介してほしいと頼んだ。それも、ステファンに予想が付きづらそうな、曰くつきの物件を。

 はじめは躊躇っていた老人も、ミシェルが突き出した札束を見て考えが変わった。

 それから一か月後、老人が探し出してくれた物件は、ミシェルの住む場所より遥かに遠い地だった。老人と共に飛行機に乗り、老人と別れた後、ミシェルは物件へと向かった。それが、ナキの家だった。

じゃあ、さっきドアを叩いた人が、そのステファンって人かもしれないのね

うん。もし、僕を狙っているのだとしたら

本当にそうなのかしら……

まぁ、確証は無いんだけどね。でも、あの無機質な瞳。あの瞳が、すごく怖いんだ

 ミシェルは、ぼぅっと前を見つめる。きっと、その瞳を思い出しているのだろう。

 大丈夫よ。そう励ましてやろうとミシェルの肩を掴んだその時。

――ドンドン。

 先程と同じ音がした。

――続

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