1878年 5月20日
1878年 5月20日
※左の建物…シャン・ド・マルス
※右の建物と広場…シャイヨー宮とトロカデロ広場
さぁ、待ちに待ったパリ万博が幕を開けた!
シャン・ド・マルスに自由の女神像の頭部があるんですって
頭部だけ? 資金不足も甚だしい!
1871年に普仏戦争でプロイセン(ドイツ)に負けて敗戦国となったフランス。しかし再び文化の中心に返り咲いた! 世界にそう伝えるためのパリ万博は、芸術と科学を取り入れた先進的な出し物を用意していた。
トロカデロ会場内に悠々と走る鉄道。
目新しい植民地のパビリオンや水族館。
セーヌ川から組み上げた水を使った、4つの噴水。
視界に入るものだけでも心擽られるパノラマ。
アベルに手を引かれたわたしは、正直パリ万博を楽しむために来たと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
来い。悠長にぼけっとしてる場合じゃねぇんだよ
そ、そんなぁ……
肌色の違う異国人に揉まれながら、セーヌ川河岸まで移動する。はためく自国の三色旗と澄んだ青空を見ながら早歩きをしていると、ふと異変に気づいた。
気球……じゃない
ふわふわと浮かぶ無数の光り輝く球体。最初は出し物の熱気球と思っていたそれは、全く違ったようだ。
御明察
げっ、オズウェル。いたなら声かけろよ
いきなり背後から現れたオズウェルさんは、珍しく人間の姿で現れていた。上品に帽子をあげて
いやぁ、若者の清きランデヴーを観察するのは楽しくてね
とほほ笑みを浮かべた。見られる側としては、良い趣味ですねとは言えない。
で? 他のメンバーは?
アベルは腕を組みながら投げやりに聞く。
『ジャポニスム最高!』って言いながら日本展まで駆けっこしていたよ。
予め言っておくけど、僕は止めたからね
俺も止めたからなー
オズウェルさんにつづいて、どこからともなくエリオさんの声が聞こえた。
エリオさんは、イエナ橋の下からこちらへ登ってきながら、キャンパス片手に手を振っていた。
エリオ……
アベルはなぜか親の敵を見るようにエリオさんをひと睨みしたが、エリオさんは相変わらずの左右非対称の顔で満面の笑みを浮かべた。そして少しかがみ、わたしと目線をあわせると、
やぁ、アリシア。『あの時』ぶりだね
秘密の温室での出来事を思い出し、少し顔に熱が集中する。脇でアベルとオズウェルさんは互いに目配せしながら、
知っているか?
知らない
といったやりとりをしていた。とうとうしびれを切らしたオズウェルさんはエリオさんに平然たる態度で尋ねる。
エリオ、お嬢さんといつの間にそんな仲良くなったんだい?
全くだ。まさかアリシア、こいつに弄ばれてねぇよな?
続いてアベルも追い打ちをかけるが、エリオさんはヘラヘラと笑いながら受け流す。
えー? それは俺とアリシアの秘密だから、教えられないなぁ
そんなやりとりを眼の前でされてオロオロと手を上げていると、背後からクスクスと小さな笑い声が聞こえる。
とても見苦しい争いが始まっているわね
に、ニナ!
笑顔でやってきた美少女、ニナがまるで女神のように思えた。
ニナは既に売り切った花籠を片手にこちらへ歩いてきた。太陽すら霞む美貌と、シルクロードを渡り歩く商人顔負けの愛想の良さが揃えば、万博にいる客は全員買いたくなるだろうと同性の私も思う。
よく見ると、ニナの胸元にはセレナーデの鍵がある。もしかして、と思っていると。
ニナもメンバーに加わってくれたんだよ。今、人手不足――否、異形手不足だからね
ふふ、よろしくね
オズウェルさんは周りを見廻し、コホンとわざとらしく小さく咳き込む。と同時にステッキの先も床にコツンと叩きつける。その瞬間、今まで続いていた言い争いはピタリと止んだ。
諸君、仕切り直そう。君らに集まってもらった理由は言うまでもない
お? 『大物』が出たのか~?
エリオさんの茶化すような口調に、オズウェルさんは至って真剣に答えた。
そうだ。あの気球みたいに浮き上がる魂の残骸を見ても分かるだろう。
あれら魂は、その『大物』とやらを恐れて地上から逃げ惑っているんだ
正体は?
アベルは眉根を上げて倦怠げに聞くと、オズウェルさんは首を横に振った。どうやら、正体は掴めていないらしい。
ただ、話によるとその『大物』とやらは強い殺意を抱いていて、このパリ万博を台無しにしようと目論んでいるようだ。
目が赤くなっている奴には気をつけるんだ。いいね?
強い殺意は目に表れやすい。目は口ほどにものを言うんだ。
まずは、そいつを見つけることだ。二人と三人に分かれて、万博内で強い邪気を発しているところを探っていってほしい。
くれぐれも、単独行動は避けてくれ
口々に了解と首を縦に振る。いたって冷静なニナが
どう二人三人と分かれるの?
と聞いた瞬間、各々の動きがピタリと止まった。
俺はアリシアとニナと組むよ!
アベルとオズウェルは野郎同士仲良くしなー
と、わたしとニナの肩を引き寄せるエリオさん。
待て。何勝手に決めてんだ
と、ガシっとエリオの襟を掴むアベル。
エリオだけ両手に花状態は許されないよ。ここは公平に選ぼうじゃないか
結局、オズウェルさんの提案でシルクハットに白色のゼラニウムの花びらを三枚、橙色の百日草の花びらを二枚入れて、くじ引きによって決めることとなった。
ゼラニウムの花びらを引いたのは、わたしとアベルとオズウェルさん。百日草の花びらを引いたのは、ニナとエリオさんだった。
一旦、12時にここで落ち合おう。
分かりにくかったら、そこにあるマリアンヌの女神像を目印にしたまえ。夕刻までには対処したい
オズウェルさんが手を叩いたところで、エリオさん含め皆真剣な顔で頷き、自由の象徴マリアンヌ像に背を向けた。
まずわたしたちはトロカデロ宮殿へ赴いた。アラブ風ともアッシリア風ともビザンチン風とも形容しかねる異様な建物で、集う人種も様々だ。
6000人も入る大ホールには、巨大なパイプオルガン。思わず口ずさみたくなるメロディが鼓膜を擽る。少し唇を開いた時、アベルは後から右手でわたしの口を覆う。
馬鹿。ここで歌ったら『大物』が警戒して逃げるぞ
へ?
そうだよ、お嬢さん。
お嬢さんの歌声は異形にとっては強力な薬にも毒にも成り得る。
シモンの件で学んだだろう? シモンの場合は己の罪に気づき始めていたから薬になったが、殺意が漲ってる『大物』には――
オズウェルさんの言葉は最後まで続かなかった。
アベル?
アベルの様子がおかしい。
眼球のある左目がじっとある一点を見つめて動かないのだ。視線のその先には。
いた……
ぼそりとアベルはそう呟くと、わたしたちに背を向けた。
わたしは待って、と言いながらアベルの手を掴もうとしたけど、虚しくも手からすり抜ける。
ドクン、ドクンと心臓は早鐘を打ち、吐き気が襲う。だって、アベルが見つけたのは現在追っている『大物』ではなく、
お嬢さん、見た?
は、はい
一瞬見えた、人混みに見え隠れする女性の後ろ姿。左手首には、毒々しい紅色で刻まれた十字架の傷。
アベルが見つけたのは、おそらく長年恋焦がれてた【探し人】だ
とうとう、わたしが心の何処かで現れないでほしいと願っていた人物が、現れてしまった――。