イーゼル越しに、不敵に笑うエリオさんの顔があった。
どうしてこうなってしまったんだろう。ふと、数時間前のことを思い出す。あの時はまだ、こういう展開になると予想だにしていなかったのだ。
俺はさっき、音全般が嫌いだと言った。カタコンベから滲み出る怨嗟(えんさ)の声も、楽しそうな談笑も、音楽も。音は鼓膜だけじゃなく、脳まで揺さぶる悪魔で不愉快な存在だ。なぁ、そうだろう。アリシア?
え、えっと
さぁ、俺のきちょーな弱点は教えた。
次はアリシア、君の番だよ。君の弱点はどこかなー?
おっと、君が曝け出すまでこの温室から出してあげないよ。
まあ、君が弱点を口にして出れたとしても、秘密にしたままこの温室に閉じこもることになったとしても、ゲームオーバーには違いないけどね
イーゼル越しに、不敵に笑うエリオさんの顔があった。
どうしてこうなってしまったんだろう。ふと、数時間前のことを思い出す。あの時はまだ、こういう展開になると予想だにしていなかったのだ。
毎朝恒例、ニナの花を買いに行く最中のことだった。
ニナの花売りの近くにあるキヨスクを通りすぎようとしたところ、新聞で顔を隠していた男性がにょきっと顔を出して話しかけてきたのだ。
話し方ですぐ分かってしまうが、その人物はいかにもイタリア人らしいエリオさんだった。
チャオ! アリシア、ここで会うなんて奇遇だね!
……そこのキヨスクで待ち伏せしていたように見えたのですが
アリシア、分かってないねー
誰かが作り出した『必然』は、相手にとっての『偶然』になり得るんだよ
だーかーら! 素直に『奇遇ですね』って頷いていればいいんだよ、子猫ちゃん
と、ウインクをお見舞いするエリオさん。近くにいた女性たちは頬を染めながらエリオさんをちらちらと見ている。
エリオさんはかなり目立つ。ただ、顔がいいからという理由だけではない。初対面でも、溢れ出る風格に只者ではないと感じ取るだろう。有名なバルザックの本でも、
天才というものは人間においてはっきり目に見えるから、どんなに無教養な者であれパリをついていて大芸術家とすれ違えば、すぐにそれと分かるだろう
と、書かれているほどだ。
アリシアもちょうどいい! キヨスクで買いたての『イリュストラシオン』、見てくれよ
ずいっと新聞を顔の前に出し、精緻な版画を指差す。
この版画、ほぼ俺一人で仕上げたんだ
へぇ、す、すごいです……!
挿絵なのに、美術館に飾られていても違和感ないですね
だろー? いずれ、アリシアも『イリュストラシオン』の音楽のページに載るかもしれないな
その言葉に、気持ちがどんよりと曇る。変化を察知したエリオさんが、左右非対称な顔をずいっと近づける。思わず後ずさり、通行人に背中があたってしまった。
アリシア、どう? これから予定ある?
え、えっと。授業が、ありますね
そうかそうか。授業なんかより、俺と遊ぼうよ!
とんだ悪い大人だ! わたしより5歳以上は年上であろうエリオさんは爽やかな笑顔でそう言うと、新聞を丸めた。
えっと……?
わたしの視線に合うようかがんだエリオさんの顔から、いつもの少し胡散臭い笑顔が剥がれていた。左右非対称なオリーブ色の瞳と視線がかち合うと、
俺なら、君を笑顔にさせてあげられる
と囁かれ、半ば無理矢理手を引かれる。
まさかその様子をニナが、
愛の逃避行かしら
と言いながら微笑ましく見ていたことに気づく余地はなかった。
パリ18区、モンマルトルの丘
ここは、先程いた2区の隣の隣の区だ。この小高い丘からは、パリの景色が一望できる。そのせいか、芸術家たちに愛される区として知られている。
階段が多いから気をつけて。ほら、こっちだよ
至れり尽くせりで少々戸惑いつつ、差し出された手をとる。
黒い鉄の手すりがあるにも関わらずご丁寧に誘導され、入り組んだ路地裏を進んだ。
路地を抜けた先に、ノスタルジックなぶどう畑と石でできた階段が現れる。
奥へ奥へ進むと、木漏れ日のさす長閑な平野が姿を現した。緑の絨毯の上には、朝露を浴びた花々が横たわっている。
あれが入口さ
指さす方向に、木々の間にぽつんと不自然に浮いた錠前がある。錠前の周りを手で探るも、何かがその錠前を吊るしているわけでも、何かに貼り付けているわけでもなさそうだ。
するとエリオさんは首にかかっていたシルバーチェーンを服の下から出す。
それは鍵であった。セレナーデの鍵のように時計型で、針は7時58分をさしている。時計盤を空に透かすと、ステンドグラス越しに見る朝焼けの空のようだ。
初見かな? これは『レヴェイユの鍵』っていうんだ。セレナーデは黄昏色だが、こっちは暁色
カチャリ。
鍵が廻った途端、なにもなかったそこに、大きなガラス張りの建物が姿を現した。まるでイギリスにあるクリスタルパレスのように、鉄骨が支えるガラスは全体的に透けながらも淡く虹色を帯びている。
綺麗……クリスタルパレスみたい
エリオさんは扉を開けると、中へ入るよう誘導する。
中に入ると、外で見た時より4倍の広さに広がっていた。見たことのない草花、樹木がガラスの宝箱の中で生きていた。
この温室は、俺しか知らない聖地なんだ。
地下のカタコンベにいる化け物さえも、セレナーデのメンバーでさえも知らない
わぁ……!
程よい、朝霧のようにひんやりとした澄み渡る空気。
絵の具の緑色だけでは表しきれない、無数の柔らかい翠たち。
植物の間を散歩する、小さな川のせせらぎ。
いつも五月蝿い死者の嘆きが、ここに来ると一気にかき消される
ちなみに俺は、音全般が嫌いなんだ。もちろん、オペラを含む音楽もな
話し声も歌声も慟哭も皆同じ
どれも鼓膜を揺らす五月蝿い自己主張の塊だと思ってた
じゃあ……わたしの声も、煩いのでは?
アリシアは特別。もし煩いと思ってたら、秘密の温室に連れてこないよ
また星を飛ばしそうなウインクを飛ばすと、エリオさんは椅子とイーゼルを引っ張りだし、絵を描く体制をとった。
そこに座って。
ところでアリシア。
俺はさっき、音全般が嫌いだと言った。カタコンベから滲み出る怨嗟(えんさ)の声も、楽しそうな談笑も、音楽も。音は鼓膜だけじゃなく、脳まで揺さぶる悪魔で不愉快な存在だ。なぁ、そうだろう。アリシア?
そこで冒頭に至る。
椅子からずり落ちそうになりながらも、つま先に力を入れる。
エリオさんは器用に筆を動かしながらも、時折眉間に皺を寄せる。どうやらわたしを描き始めたらしく、妙に肩に力が入ってしまった。
エリオさんにはきっと、嘘が通じないだろう。どこかアベルと似た達観する眼差しは、相手を選ばず幼稚な法螺話さえ許さないはずだ。
弱点、かは分かりませんが。アベルのことになると、胸がざわつく気がします
ふぅん……やっぱりね
妙に刺々しい返答に背筋が凍りつく。
それで浮かない顔をしているのも、アベルのことで何かあったから。違うかな?
エリオさんの言うとおり、確かに昨夜あったことに頭を悩ませていた。そのことを思い出しつつ、訥々(とつとつ)と吐露する。
昨夜、妹のエリゼがなぜかわたしの部屋にいて、アベルと会ってたんです。
様子からして、初対面のようでした。
流石双子というか、わたしとアベルが会った時のように彼の魅力の虜になってて――
虜、という言葉にエリオさんは眉根を上げて相槌を打つ。
ほう
帰ってきたわたしに、エリゼの罵倒が待っていました……
『あんたはあたしが本当に欲しいものを奪う』とか、『アベルはあたしのものよ』とか
唐突だなー。アベルはなにか言ったのか?
黙りこくって、わたしたち双子を悲しい目で見ていました
……わたし、きっと、アベルになにか言ってほしかったのだと思うんです
いつもの彼なら、結構何でも口にしますから心のどこかで期待してたんです
けれども、擁護の言葉はなし。
最終的には、煩いからといってエリゼを帰らせたアベルだが、それ以降わたしに背を向けたまま窓の外をぼうっと見ていたのだ。窓の外――つまり、エリゼが正面玄関へ帰っていく姿を。
やっぱり、アベルだってエリゼみたいに綺麗な女の子の方がいいよね。わたしみたいな冴えない主なんて、嫌だよね。きっと口に出していないだけで、そう思っているはず。
不純物だらけだねー
え?
脈絡のないエリオさんの言葉に、思わず聞き返した。
君ら双子と、アベルのことだよ
アリシアは絵の具の原理を知ってるかな?
三原色は青色・赤色・黄色だ
これらを混ぜると、限りなく黒に近くなるんだよ。まるで君たちみたいだなぁ
一人でもきちんと混ざらない色があれば、そんな色にはならないのに
…………
襲いかかる沈黙。
エリオさんは普段しないような真剣な顔で筆を進めている。
アリシア、俺は君をそんな色にしてしまいたくない
無責任に染め上げるくらいなら、最後までその色を扱う責任を持つべきだ
エリオさんはそこまで言うと、笑顔のままハッと固まった。それはまるで、自分でも意識せず言葉を口に出してしまったようだった。だがすぐ、取り繕うように筆を動かす。
ごめんごめん! つい変なことを口走ってしまったね
エリオさん、エリオさんって……
椅子から立ち上がり、座っているエリオさんの前に立ちはだかる。少し顔を近づけ、エリオさんの澄んだ瞳を見つめると、エリオさんは笑顔のまま瞳を大きく見開かせた。
その……意外と誠実な方ですよね
――おっどろき! 初めて誠実って言われたよ。どのへんが?
『愛すること』に責任を負っているところ、です。だからこそ、きっと愛せない人には最初からむやみに期待させない。違います?
周りの活き活きと美しく育つ植物を見渡し、言葉を続ける。
その証拠が、周りの草花なんじゃないんですか。大切に鍵をかけた宝箱の中で、誰かが褒めてくれるわけでもないのに、心から大切に育ててる。そんな気がして
エリオさんはしばらく黙りこくっていた。
瞳孔は開ききっていて、驚愕と警戒が混ざり合った瞳の色をしていた。が、わたしが屈んでいたせいで前に垂れた後ろ髪をエリオさんが強く引っ張る。そして、更に顔の距離が接近した。
そうだなぁ。アリシアがそう見えるなら、そういうことにしておこう。――それはそうと、アリシア
煮え切らない返答の末、エリオさんはどこか逸らかすように次の話題へ移した。
え、ええっと。なんでしょう?
エリオさんはポケットから札束を出すと、女の子が卒倒しそうなほどキザに微笑んで、
俺の専属モデルになってくれない? タダとは言わない、時間給だ。契約は、俺が君の絵を仕上げるまで。どう?
と言って、わたしの手にそれを握らせた。
わたしはすぐにその札束を押し返す。初めて見た大金に、悲鳴が漏れそうになった。
む、むむむ無理です! こんな大金! そ、それにわたしより綺麗な人なんて山ほどいますよ……!
エリオさんも、負けじとわたしが押し返した札束をぐぐぐっと更に押し返す。
分かってないなー、アリシア! 君ほど真の美をもった人間はいないよ。こんな札束じゃ、君の価値ははかりしれない
こんなタイミングでウインクをするだなんて、卑怯だ! エリオさんはそんな細い腕のどこにそんな力があるのか問いたくなるほどの力で、再び札束をわたしに握らせた。
うっ……
こんな紙きれで、女の子の大好きなお洒落用品だって容易に手に入る
そう、この紙きれは手段の一部なんだよ、アリシア。君が輝くための手段として、是非使ってくれ。な?
良いように言いくるめられ、頑固に引かないエリオさんの意見に最終的には頷くほかなかった。
その後、日が暮れるまで器用に筆をすすめるエリオさんと談笑した。
普段のセレナーデの様子のこと。スケルさんはああ見えて生前、ハンサムだったこと。エリオさんは光の画家、モネに敵対心を抱いていること。
ああ、この人と話していると時間を忘れてしまうほど楽しい……! そう思ってしまったため、温室を後にする際に後ろ髪を引かれる想いを抱いた。
随分と話し込んでしまったね
本当に……! あの、今日はありがとうございました。すごく、楽しかったです
そう言うと、エリオさんは腕を組んだまま得意気に笑った。
それは良かった。またいつでもおいで。誰にも渡さないつもりだったけど……ここの温室の合鍵を渡しておくよ
わざわざわたしの首にかけてくれたものは、先程見た銀の鍵だった。大切なものであるはずなのに、エリオさんは人差し指を口に当てて
俺とアリシアだけの秘密だよ
と囁いた。
陽にかざすと、ステンドグラスのように見える鍵。その小さな美しい景色に心をとらわれてしまっていた。そのせいで、のちにこの鍵にこめられていた重い意味を知ることになろうとは、この時思ってもみなかったのである。
自分の気持ちを認めたエリオがグイグイ攻めてきて、アリシアたんはタジタジですね!?
それでも、そんなエリオにも正直にアベルへの気持ちを言ってしまうアリシアたんは擦れてないなあと思います。
アリシアたんの周りは本当に素敵に愉快な人たちだらけになりましたね。これからの展開が楽しみです!
話と合間って際立つ温室と鍵。そしてそこで描くエリオとエリオの中にある一欠片の感情を会話の中で感じ取るアリシア。アベルとのことはあるとは言え、温室に導かれ過ごした時間はきっとアリシアの何か糧になるのだろなぁ。と。
合鍵を渡されたアリシアのこれからもまた気になります…!