アベルが見つけたのは『大物』なんかではない。 年を数えるのも億劫になるほど永い時間、探し続けていた【探し人】なのだ。
わたしの中で【探し人】というなんとも厄介な存在を矮小化していただけあって、アベルにとってはやはり些事ではない現実を思い知らされて、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
アベルが見つけたのは『大物』なんかではない。 年を数えるのも億劫になるほど永い時間、探し続けていた【探し人】なのだ。
わたしの中で【探し人】というなんとも厄介な存在を矮小化していただけあって、アベルにとってはやはり些事ではない現実を思い知らされて、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
行かないで……!
まだ、【探し人】を見つけないで。
いずれ見つけてしまう運命だとしても、今だけは『アリシア・バレ』を――わたしだけを見ていてほしいのに。
いっそのこと、例えその「見る」が観客としての「観る」でも構わない。
同じ舞台に立つ共演者として見なくてもいいから、冷めた目で批評しながら観客席で観てくれるのであれば、それだけで幸せなのに。
いきなり出てきた【探し人】という役者に照明が切り替わり、わたしは惨めにこのまま引き下がってしまって良いものなのだろうか。
今まではこういった時、ひとりでに心に緞帳(どんちょう)を降ろして幕閉じであった。今回こそはそうしたくない、そう決意をこめたその時。
お嬢さん。アベルを探している暇はないよ。わかっているね?
身体が冷水を浴びせたように竦む。
オズウェルさんを見ると、今まで見たことがないくらいに冷たい表情をしていて、一気にせり上がりかけていた嗚咽が霧散する。
オズウェルさん……?
――失敬。だがこれだけは覚えておいてほしいんだ、お嬢さん
氷のような表情から一変、いつもの柔和な微笑みで温かい彩りを見せる。
誰しも、渇望するほど追いかけたい存在があるものだ。
だが、敢えて手を伸ばさず見守ることも、人生において大切なことなんだよ
目を細めるオズウェルさん。
夕陽のように光る金色の瞳は一切揺れず、その双眼から迷いのない鍛錬された感情が窺い知れた。
ニナー
…………
ニーナー、ニナニナニーナ! ちぇっ、つれないなぁ
……貴方は見るからに五月蝿い人ね
音が聞こえないニナでも分かるほどお喋りを続けるエリオに、ニナはとうとう弧を描いたままの唇を少し開き、こめかみあたりを指でとんとんと叩いた。
へへ、口が達者なのは自覚してるぜ。
なに? 麗しのニナ様はそこらに生えてる街路樹みたいにだんまりな男がいいわけー?
そうね、木々のほうが静かだし日陰をつくってくれるし枝にも乗せてくれるから、少なくとも貴方よりはマシかもしれないわね
なんだその言い草~
エリオはニナの前に立ちふさがり、ニンマリとした作り笑いを浮かべてニナを見下ろす。
ニナもまた、エリオの胸あたりに顔があるにも関わらず凄い剣幕でエリオを睨み上げる。
……はっ。その教会のガーゴイルみたいな醜い表情、アリシアに見せたことないだろ?
ふふっ。ガーゴイルなら魔除けになるからいいじゃない。
貴方こそ、その詐欺師みたいな口だけの笑顔、アリシアに見せたことないでしょう?
――あの子に近づかないでちょうだい。あの子は清い人間なの、異形の貴方とは違う
ニナはオズウェルから手渡されていたセレナーデの鍵をぎゅっと握りしめる。セレナーデの鍵も呼応するように、大げさなほどの秒針の音を轟かせる。
チク、タク、チク……。
人のこと言えないだろ、お前も
チク、タッ……。
ニナは絶望と驚愕の混ざった表情を浮かべ、小刻みに震えだす。
シモンの除霊の時、言ったろ?
『俺はお前の心の反射鏡なんだ』って。
『影の画家』の俺が、お前の『影』をも見逃すと思ったか?
!? や、やめ……お願い、アリシアにだけは! あの子にだけは、言わないで……
ニナは必死の形相でエリオの襟を引っ張る。対してエリオは取り乱すことなく、先程とは打って変わって聖人のような表情を浮かべ、顎をそらした。
言わないさ。
俺はこう見えて、口のかたい男だからな。
同族嫌悪も分かるが、まあそうだな……。
オズウェル風に言うと、『人間らしく』振る舞って、俺らの穢れは隠そうではないか!
イタリア人らしく指をパチンと鳴らしたとの時だった。
きゃぁ!!!!
背後から女性の大きな悲鳴が聞こえ、エリオについでニナもハッとする。
やべぇぞ、おいおい
誰の声? アリシアの声じゃない!?
アリシアではない誰かだ
二人は示し合わせたように、ほぼ同時に足を踏み出した。
あ、お前たち。やはり日本展示館にいたか
ひぃっ、オズウェルさん! すみません、仕事に戻ります!
木でできた奇妙な一階建ての建物の前で、セレナーデのメンバーと思しき男性が二人立っており、オズウェルさんは静かに窘めた。顔面蒼白の彼らはすぐさま、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
相変わらず困ったメンバーだ。さて――
もし、そちらの方
背を向けようとしたわたしとオズウェルさんだが、半回転したところで動作を止める。
聞き覚えのある水鈴琴のような声。
やっぱり、アリシアさんね。おいでませ、日本展へ
スズカちゃん! どうしてこんなところに?
私の大切な人が展示品を出してるの。
ふふ、アリシアさんには嫌われたと思ってたから、またこうやってお話できて嬉しいわ
【私、人間じゃないの】
スズカちゃんとの初対面の時にそう告げられて思わず踵を返してしまったことを思い出し、申し訳無さと羞恥心から縮こまる。
あら、そんな背を丸めなくても。
大丈夫よ、ああいう反応は慣れてるから、ね。
それに、どうやら隣の殿方も人間ではないようね
オズウェルと申します。
スズカさん、といったかな。僕たちと同じ存在なら話は早い
ふふ、興味深いわね。
――けれどもまあ、出入り口で話すのも風情がないから、中で雅楽でも観ながらお話しましょうよ
促されながら入ると、明らかに西欧では見かけない独特な色合いの展示品で溢れかえっており、目を丸くさせた。
こちらはビョウブっていうの。
部屋を仕切る家具よ。
今日本は国粋主義なのに、洋画家っていう存在がいて皮肉よね。
洋画家の高橋由一が油彩で描いたものなのだけど、ビョウブに描いちゃったから出品としては『美術品』ではなく『家具』の部類になっちゃったの。気の毒よね。
こちらは式部寮の楽器八箱で――
こちらは式部寮の楽器八箱でして――
スラスラと慣れた説明を口にしていたスズカちゃんに被るように、同じ説明が真横で流れる。
少し不慣れなフランス語で説明する、華奢な日本人男性。スズカちゃんが彼を見る度に頬を赤く染めるものだから、容易にどういった存在か察しがついた。
桐生殿! これら楽器はケースから出せないのですかね?
ええ、申し訳ございませんがケースから出すなと言われておりまして
そうかね。わしら専門家からすれば少しでも触ってみたいものだが
……大変申し訳ございません
切れ長の目を細め、申し訳なさそうに腰をへこへこと折る彼――キリュウさん。
桐生さん……
ぼそりと、重く鋭い悲しみをはらんだスズカちゃんの声。
スズカちゃん、あの
ああ、ごめんなさい。お話ね。なにか探しものでも?
見透かしたような瞳にギクリとしていると、今まで黙って様子見をしていたオズウェルさんが一歩前に出た。
そうなんだ。単刀直入で風情もなにもないが――ここいらで、邪悪な霊は見なかったかな?
少し急かすような口調で尋ねるオズウェルさんに、スズカちゃんは遠い目でオズウェルさんを――否、その先のなにかを見て、首を横に振った。
残念ながらなにも見なかったわ。
そもそも巴里自体が淀んで血生臭くて、気づきっこないもの
シャッと扇子を片手で下ろし、扇子を広げたかと思うと、それで鼻を覆う。
――それは申し訳なかったね。
パリは日本ほど浄化が追いついていないんだよ。教会は腐敗しているし、聖職者は仕事をしないし。
と、異国の少女に愚痴を漏らしている暇はないね
『少女』って、嫌味かしら?
いえいえそんな! 褒め言葉ですよ。
僕らの人生の先輩に、嫌味なんて口が裂けても言えないさ。
さあ、そろそろお暇(いとま)しようか、お嬢さん
え? あ、は、はい。スズカちゃん、ではまた!
手を振ると、スズカちゃんは弾けたように伏せた瞳をあげて
あ、待って
と声をあげた。
アリシアさん、これを
着物の袂から取り出す。ふたつあるうちのひとつを、わたしの両手におさめる。両手を広げると、そこには夕闇色のペンデュラムがコロンと転がっていた。
このペンデュラムは?
これはね、『宇宙/雨中(ウチュウ)の振り子(ペンデュラム)』っていうの。
日本では『宇宙』も『雨中』も、同じ『ウチュウ』っていう響きなのよ。
彼――職人の桐生家が得意としている芸術品兼お守りなのよ
大切そうに、わたしの手ごとペンデュラムを撫でる。
桐生薫の言葉を借りるとこうね
運 命 と は、
すなわち振り子(ペンデュラム)である。
宙からは星雨(流星)が振り、
子である空からは雨が振る。
いつも真北にある北極星のように、
最終地点を見失わぬように
アリシアさん。
振り子がとれて時間が狂った置き時計はね、ずっと狂ったままなの。
貴方の大切な置き時計さんは、今いずこへ?
その言葉に、ふとアベルの顔がよぎった。
同じ言葉をね、実は先程いらした金髪のドールさんにかけたのよ。
あの方はこの振り子を拒んだけど、貴方こそはこの振り子を有効活用するって信じてるわ
雨中で迷う彼を、どうか導いてあげて
もうひとつのペンデュラムも手渡され、壊れないように握りしめる。今はパリ万博を脅かす『大物』を見つけなければならない。けど、やっぱり――。
ありがとう、スズカちゃん……!
あと、オズウェルさん、ごめんなさい
わたしはオズウェルさんほど、大人になれそうにはなかったようだ。
本当は手を伸ばさずに見守るほうが大人なのかもしれない。
善良な人間なのかもしれない。
けれども勝手なことだと重々承知の上で、わたしはアベルの影の方へと手を伸ばした。