あれ、私なんで走ってるんだっけ。

そう、確か朝から電話がかかってきて。

それで――そう。
耳を疑うような。信じたくないことを聞かされた。

紅原 瞳

はぁはぁ……!
蓼科先生!あの、その――!

堰を切ったように言葉が溢れだして、逆に言葉が言葉にならない。

蓼科 新介

とりあえず、落ち着いてね?
えーっと、僕は把握してなかったのだけれど、彼と瞳ちゃんは知り合いだったのかい?

紅原 瞳

知り合いだったというか……知り合いになったというか……。

蓼科 新介

ふむ……そうかい?

紅原 瞳

その――。

その言葉を言うのはひどく憚られたけれど。
しかし、真実を知る必要がある。

紅原 瞳

泪さんが亡くなった、というのは本当ですか?

数秒の間。
蓼科はくたびれた様子でソファに深々と座って天井を仰いだ。
そして一言。

蓼科 新介

ああ、事実だよ?
先ほど彼のご両親に身元確認を済ませてもらったところさ?

カフェでの記憶が蘇る。

両沢 泪

よかったです。
もっと話したいですけど、そろそろ僕行かないとです。今日専門学校の授業があるですよ。

両沢 泪

まぁ少し、です。
実は僕だけしか知らない裏ルートがあるですよ。そこから行けば人気もないし、すぐ行けるです。

両沢 泪

考えておきますです。じゃあ!

非常に短い時間だったけれど。
自分が関わった人間が、しかも生き生きと、かつて傷つけられた親友のために実験に参加し、Webデザイナーとなるために努力をしていた人物がたった一晩の後に死んだというこの事実を私は受け止めるのに時間が要った。

紅原 瞳

そ、そんな……。まさか……亡くなったなんて。

蓼科 新介

瞳ちゃんに隠す理由はないから、というか、隠してはいけない理由があるからあえて言っておくけれどね?
泪君は正確には亡くなったんじゃないよ?

そんな推理小説でよくあるような言い回しが自分に投げかけられるなんて今まで思いはしなかったのだけれど、次の一言が私には分かってしまった。

蓼科 新介

亡くなったんじゃない、殺されたんだ。

紅原 瞳

犯人は……もう捕まったんですか?
それに私に隠してはいけない理由って――?

蓼科 新介

うーん、そうだね?
本当なら瞳ちゃんみたいな普通の女子大生に見せるべきではないのだけれどね?
この後の説得のために少し我慢してもらおうかな?

蓼科は浮かない顔でそう言って、ソファを立ち上がる。そして、ついてこいというように後ろ手に手招きして応接室を出た。

私の直感は既に嫌な展開に反応しまくっていて、そのせいか一瞬足が固まったように動かなかった。

でも、確かめないと。

感覚のない足を動かし、蓼科の後に続いて廊下に出る。

一歩踏み出すために揺れる白衣の背中をぼんやりと見ながら歩く。

ふと、家に残してきた少年の顔を思い出す。

電話で両沢泪の訃報を聞いて、慌てて飛び出してきてしまった。今頃、どうしているだろうか。

家で私の帰りを待っているだろうか。
それとも好機と見てまた一人でどこかへ行ってしまうだろうか。

まぁ、きっと後者だろう。
名前くらい聞いておけばよかった。
結局彼の名を呼ばないままである。

でも、もし彼が家に残っていたならば、きっと名前を聞こう。
そして許されるのであれば、彼の前で泣いてしまいたかった。

ああ、私は自分のことばかりだ。
でも、そうでもしないと悲しさで歩みを止めてしまいそうだった。

両沢泪の死という事実を受け止め切れていない。

そんなことを考えていると、突然止まった蓼科の背中にぶつかってしまった。

蓼科 新介

大丈夫かい?瞳ちゃん。
無理そうなら帰ってもらっても構わないよ。今から見せるものは正直、気味のいいものではないからね?

紅原 瞳

い……いえ……。
大丈夫です。

蓼科 新介

そうかい?じゃあ開けるよ?

手術室……いや、これは解剖室か。

誰かがベッドに横たえられ、上からブルーシートをかぶせられている。

いや、誰かが、なんて白々しいことを言うのはやめておこう。

両沢泪の遺体が、そこに横たえられていた。

蓼科 新介

彼の死因は出血多量によるショック死ということは解剖で分かっているんだけれどね?

カツ、カツと物々しく遺体に近づいた蓼科はブルーシートをゆっくりと持ち上げた。

紅原 瞳

あ、あの――!

私は思わず目を背けてしまった。
蓼科は黙ったままだ。
きっと、見たくないなら見なくていいということを暗に告げているのだろう。

しかし、ここまで来たのに、目を背けたままというのは、それこそ本当に白々しい。

私は恐る恐る視線を戻した。

紅原 瞳

これって……。

そこには遺体があった。
いや、それは当たり前なのだけれど、というか自明なのだけれど。
しかし、それはあまりに「白かった」。

もちろん死因が出血多量によるショック死で、死後それなりに時間が経っているのだから、遺体が血色豊かなんてことはないのは分かっている。

けれど、それはあまりに白すぎた。
それこそ白々しいほどに白かった。
まるで、全身の血液を、すべて吸い尽くされたかのように。

まるで、"吸血鬼"に襲われたかのように。

紅原 瞳

出血多量って、刺殺……とかですか?

蓼科 新介

そうだったらいくらか話は簡単なんだけどね?

蓼科は手術用の手袋をしてもう動かなくなった泪の首元を見えるように動かした。

そこには二つの穴が、"吸血鬼"の噛み痕があった。

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