蓼科は泪の首から手を放すと私をまっすぐに見て問うた。
この二つの穴。何か、思い当たる節はないかい?
蓼科は泪の首から手を放すと私をまっすぐに見て問うた。
えっと、あの、その……。
あの少年の顔がちらつく。
神々しい金色の髪と、禍々しい緋色の瞳。
そして、二本の長い牙。
瞳ちゃん、前に僕に聞いたことがあったよね?
吸血鬼はいると思うか、と。
はい、聞きました。
僕はあのとき、ファンタジーが生み出した化け物としての吸血鬼はいないんじゃないかと言ったよね?
そうだ。吸血鬼なんてものは彼の神々しくも禍々しい姿を表すために私が勝手に空想したことで――。
彼が吸血鬼だなんて、いや、吸血鬼であったとしても、彼が人殺しだなんて信じられなかった。
信じたくなかった。
でも、科学が生み出した化け物としての吸血鬼は存在する。存在してしまった。
そういって、蓼科はある一枚の写真を見せた。
金髪緋眼の少年が映った写真を。
数十分後。
私はあの時計塔のある広場のベンチに腰掛けていた。
はぁ……。
ため息は広場の喧騒に飲み込まれていく。
夜は誰も通らないこの広場も昼間となると、それなりの人気がある。
私の座るベンチの向かいのベンチでは赤子を連れた夫婦が仲睦まじく話していた。
あのピザ屋さん、おいしかったね。
そうね。未来(ミキ)の遊べるスペースもあったし。また行きたいわね。
まんま、まんま。
あら、甘えたさんなのから。はーいじゃあ抱っこしてあげるわねー。
未来は美穂にべったりだな。
そうねぇ。直樹さんもたまには面倒みてあげないとパパ嫌いって言われちゃうわよ?
おっと。それは困るな。
なんとなく、見覚えのある夫婦だったが、しかしどこで出会ったのかを思い出すような気力が私にはなかった。
そして、蓼科の語ったことを思い出す。
彼はうちの被験者だ。もちろん、瞳ちゃんも参加している《自由七科》の実験ではないけどね?
まぁ、なんの実験かは詳しく話すことはできないけれど、彼にはある能力がある、ということが調べで分かっている。
血液操作。そして、それと同時に吸血行動をとるらしい。
泪君を殺害した犯人はその少年だ。
そして少年が殺害したのは泪君だけじゃない。
泪君を含めて四人が同様に吸血されて死んでいるのが見つかった。
そして、その四人のうち四人が、つまり殺された全員が、例外なく《自由七科》の参加者。
ここまでくると無差別殺人であるという主張の方がむしろ不自然だ。
つまり、君も狙われる可能性が非常に高い。いや、もっとはっきり言おうか?
瞳ちゃん、次は君が狙われる。
だから、もし瞳ちゃんが何か知っているのであれば、教えてほしい。
瞳ちゃんの身の安全を確保する意味でも。
しかし、結局私は少年のことを話すことはできなかった。
すると蓼科は、私が話す気がないと悟ったのか、「まぁ後でもいいから言ってくれると助かるよ。あと、夜は一人で出歩かないようにね?」と言って私を見送ったのだった。
冷静に考えて私の行動は非合理的かつ非道徳的であった。
私が少年のことを語らないということは、他の私を含む被害者を助けないということである。
そんなことは分かっている。
分かってはいるけれど。
少年が指摘したように私は私の行動原理を理解していない。
ただ、彼のことを差し出すような真似が、どうしても私にはできなかった。
けれど、私は家に帰ることもできなかった。
つまり、もしかしたら家にまだいるかもしれない少年と向き合うことはできなかった。
彼を見捨てることも、彼を信頼することもしない私は中途半端以外のなにものでもない。
あの楽観的な私がここまで悩むほど、状況は切迫している。
そんな私とは対照的に目の前の家族は幸せそうだった。
それにしても僕と美穂の携帯が同時に壊れるというのもまた困ったものだな。
そうねぇ。ここ二日ぐらい誰とも連絡とれてないし、さすがに心配ねぇ。早く修理終わらないかしら。
まぁ、これこそ本当の家族水入らずってね。
美穂と未来と話せれば別に僕は全然構わない。
も、もう、急に恥ずかしいこと言わないでよ!
まぁ、駆け落ちしたときからどんな不幸も耐えると決めているからね。携帯が壊れるくらいへっちゃらさ。
そうは言っても、固定電話もついてないアパートというのも困ったものよねぇ。
は、はい……。早く次の小説書いて収入をね……。
あら、分かってしまったかしら。
ま、とにかく頑張って、荒川先生。
まぁでも、確かに蓼科先生と連絡が取れないのはまずいなぁ。何かあったときに困るし。
明日にでも一度研究所に行こうか。
……ああ。
そうか、思い出した。
あの夫婦も《自由七科》に参加していた。
つまり、《自由七科》のうち生き残った三人のうち私以外の二人だ。
――蓼科と連絡が取れていない?
止まっていた私の思考が少しずつ回りだす。
つまり、あの夫婦は自分たちが置かれている危険性を関知していない。
知らせなくては。
さもなくば、私より先か後かはともかく、あの夫婦は殺される。
そう思ってベンチから立ち上がった瞬間。
紅原……瞳……発見。
夏だと言うのにやけに重ね着をした長身の男。
あっと、あなたは――。
どなたですか、という言葉は、彼の手が私の口と鼻を覆ったことで途絶えた。
意識が遠のいていく。
最後に知覚したのは、男が私を軽く持ち上げ、乱暴に車へつぎ込まれた衝撃と、何も知らない幸せな家族の笑い声だけだった。