本当に、海だ……

 曇った空の下にある、日本海側の海は、勇太の目には少し暗く感じられた。

本当に……

 海を目の前にして溜息をついている自分が、未だに信じられない。しかしこれは現実。潮の香りも、潮騒の音も、ちゃんと、ある。勇太は首を強く横に振ると、もう一度、うねるように砂浜へと打ち寄せる波を見つめた。

 母が懸賞で当てたのは、日本海側にある閑静な宿場町の、少し外れに位置する温泉旅館の二泊三日の宿泊券四人分。歴史と建物が好きな両親には格好の旅行先だと、勇太は思った。しかし自分にとっては、残念ながらあまり魅力的には思えない。

 確かに、昨夜の晩御飯は、目の前で揚げられた精進揚げも、酒蒸しした魚も、大ぶりの鍋の中に入っていた魚も野菜も美味しかった。旅館自体も、小さいながらも清潔でこざっぱりしており、美人だという評判の、祖母、母、娘三世代の女将も、普通に美人だった。

 だが。両親と違って歴史にも建物にも興味が無い勇太は、今日一日何をすれば良いのだろうか? 兄は、希望通り、持ってきた多量の本や論文を読むと言っていたが。
 とにかく、海が近いから、泳ぎに行こう。現地で借りた車に乗った両親が楽しそうに宿場町の見学に行った後、勇太は泳げる場所を、丁度近くを通りかかった、昨日揚げ物を作っていた父と同じくらいの年齢の料理長に尋ね、その人が教えてくれた通りの道を辿ってここに来た。

 潮の流れと海水温の作用があるらしく、この時期になると途端に増えるクラゲは、海面に見えない。
 しかし用心した方が良いという、気の良さそうな料理長が貸してくれた旅館に有ったサーファー用のウェットスーツを身に着け、脱いだ服を、荷物を預かってくれるらしい海の家に預ける。サーフィンの波を待っている人を避け、人気の無い場所から、勇太は暗い海へと入っていった。

 海の水は、思っていたよりも滑らかだった。
 しかし少し濁っている。天気が悪い所為なのかもしれない。朝方降った、夏なのに暗く冷たい雨を思い出し、勇太はその身を温めるように大きく手を動かして水を掻いた。
 それでも、勇太の体を沈める方向へと、水がうねるのが分かる。泳ぎは、小さい頃に父から習い、水音が気に入って中学まで水泳教室に通っていたから自信はある。だが、このうねりを甘く見るのは、危険だ。勇太はうねりに逆らわないように、しかし砂浜からの距離には気をつけて、何度も水に潜った。波は、突き詰めれば音と同じ。それが、勇太の考え。だから海は好きだ。波に身を任せて泳ぎながら、勇太が感じていたのは、安堵感。

 しばらく泳いで、砂浜へと戻る。
 ようやく温まった砂浜に腰を下ろすと、空腹感が勇太の身を襲ってきた。

……あ

 そういえば、財布を持って来ていない。自分の迂闊さに苦笑する。周りを見渡すと、海の家で食べ物を買っている人の他に、暗い色の着物を着た人からお弁当らしきものを受け取っている人も居る。旅館まで戻るしかないか。勇太はふっと息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。

 と。

雨宮さん、ですか?


 突然の声に、背中がびくっと震える。

はい


 そう言って声の方を見た勇太は、目の前にいた人にはっと目を見開いた。

木根原


 その言葉を、何とか飲み込む。よく見ると、目の前に立っていた女性は、木根原に似てはいるが彼女よりずっと年上に見えた。つばの広い麦わら帽子を被り、暗い色だが薄手の和服を着ている。

あの、……これを


 勇太の驚きには気付かなかったのか、木根原に似た女性は勇太に何か四角いものが入ったビニール袋を静かに差し出した。そのビニール袋は、先程この女性がサーファー達に渡していたのと同じものだ。そのことにだけは、勇太は何とか気付いた。

お兄様から、弟にもお弁当を持って行って欲しいと頼まれましたので

あ、ありがとうございます


 それでも何とか、お礼を言って、袋を受け取る。和服の女性が去ってから、勇太は袋から小ぶりな箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。

あ……


 箱の中に見えたものに、心を揺さぶられる。この、巻き寿司は。胡瓜と卵焼きとカニカマボコを使った巻き寿司は、時々木根原が作って兄の研究室まで持ってきてくれるものと同じ。いや。そっと、首を横に振る。どこにでもある材料で作ることができる巻き寿司だ。木根原のと、同じではない。そう思いながらかぶりついた巻き寿司の味は、木根原が作る巻き寿司と寸分、変わらなかった。

 昼食後、砂浜で少し昼寝をしてから、再び海を泳ぐ。飽きるまでさんざん泳ぎ、疲れを感じた時には、夏の日は既にだいぶん傾いていた。

もう、いいかな

 身体が冷たくなったな。泳ぎ疲れてぼうっとした頭でそんなことを考える。旅館に戻って温泉に入ろう。そう思いながら、勇太は帰り道を急いだ。だが、それでも、行きと同じ道を歩くのは、つまらない。目の端に入った脇道に、勇太は足を向けた。方向が同じなら、歩けば旅館に辿り着けるはずだ。

 勇太の予測通り、そんなに歩かないうちに旅館の屋根が見えてくる。

 だが、脇道が途切れたところにあったのは、野菜畑と鶏が歩く庭。それでも、庭の向こうに旅館の建物が見えているから、ここは旅館の裏手なのだろう。広々とし、手入れが行き届いているように見える野菜畑に、勇太はこくんと頷いた。おそらく、昨日食べた野菜は、ここで作られたものに違いない。魚も、料理長が海で取ってきたものを使っていると聞いている。地産地消という言葉を、勇太はまざまざと感じていた。

 と。

サトコ、頼む


 建物の方から聞こえる低い声に、はっとして物陰に身を隠す。隠れる必要は全く以て無いような気がするが、それでも、隠れないといけないと思ったのは、おそらく木根原の名前と同じ音を聞いたから。そして。

はい


 聞き知った声が、勇太の耳を震わせる。そっと、物陰から少しだけ顔を上げると、紺色の着物に似た作業衣に身を包んだ小柄な影が建物から出てきた。その、影は。

木根原


 出掛かった言葉を、何とか飲み込む。見慣れぬ服装をし、短い髪をスカーフでまとめているが、あれは確かに木根原。そして。鶏が遊ぶ庭に出てきた木根原が、その鶏の中の一羽を躊躇い無く捕まえ、唇を引き結んで建物の方へ戻る様を、勇太は呆然と見つめていた。

 その日の夕御飯には、鶏の水炊きが出た。

ごめんなさいねぇ
今朝は天気が悪くて漁に出られなかったのですわ

 部屋に食事を持ってきてくれた老齢の大女将の言葉を耳に、そっと、鍋の中の鶏肉を見る。
 この肉は、木根原が捕まえていた鶏、だろう。夕方まで、庭を歩いていた……。そこまで考えて、勇太は首を横に振った。母が買ってくる、綺麗にパッケージされた肉だって、大学の食堂や大学近くの店で勇太が食べている昼食に入っている肉だって、生きている牛や豚や鶏を誰かが肉にしてくれたものだ。それを食べるのは、無くなった命を大切にする行為。

食べないのか?

 聞くと少しいらいらする兄の声が、耳を揺らす。しかし今は何も言わず、勇太は鍋の中の鶏肉を箸で掴み取った。

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