ティンカーベルを自転車の後ろに乗せて、彼女の道案内で家の周囲まで来る。
 すっかり夏の空は夕暮れて、遠くで蝉の声が聞こえた。

 ティンカーベルは学校を離れるに連れ、次第に無口になっていった。
 彼女としては心配で仕方がないのだろう。
 俺も何を言っていいのかわからず、黙って自転車を漕ぐ。

ティンカーベル

その角を曲がったところが、あたしの家


 ぽつりとティンカーベルが言った。
 俺は自転車を止める。彼女も自転車から降りて、俺の前に回りこんだ。

ティンカーベル

菊池センパイ、その……

雄哉

大丈夫だよ。それより、葛城が怒られたりはしない?

ティンカーベル

あたしはいつも怒鳴られてるから大丈夫だよ。でも……

雄哉

じゃあ、俺も平気

ティンカーベル

『じゃあ』って意味わかんないよ、センパイ


 ようやくティンカーベルは笑った。
 俺にとってはそのほうが大事だ。

雄哉

案内してもらえる?


 彼女は頷く。
 俺は自転車のハンドルを強く握りしめた。
 明日の結果が、これからにかかっている。

ティンカーベル

ただいま

雄哉

ごめんください


 ティンカーベルと共に、失礼ながら玄関に顔を出す。
 廊下の向こうから、お酒に酔ったような声が聞こえた。

父親

帰りが遅いぞ。酒がもうない

ティンカーベル

未成年じゃ買えないって言ってるでしょ。お父さん、ちょっと相談があるの

父親

酒買ってきてから言え

雄哉

すみません


 俺は声を大きくして話に割り込んだ。

雄哉

ゆきねさんと同じ学校の者です。ご相談があってお邪魔しました

父親

ああん?


 廊下の向こうから男性が顔を出す。
 ティンカーベルが咄嗟に俺の後ろに隠れた。
 この不機嫌そうな男性が、彼女の父親なのだろう。

父親

誰だ

雄哉

ゆきねさんの先輩にあたります。単刀直入に申し上げます。学校で、彼女の担任と話し合ってはもらえませんか

父親

は?


 男性は一瞬目を瞬くと、つまらなそうに言った。

父親

帰れ、阿呆

雄哉

学費も滞納されているとのこと、奨学金を駆使するとしてもやはり親御さんと話し合わないと

父親

帰れって言ってるだろうが。ガキが人の家の事情に口を挟むんじゃねえ

雄哉

承知で言っています。ゆきねさんに学校を辞めさせたくないですから

父親

高校なんか行かないで働けって俺は言ってるんだ


 男性は俺の後ろにいるティンカーベルを睨みつけた。

父親

勉強なんて、社会にでたら何の役にも立たねえ。そんなこと、まだ理解してないのか

雄哉

じゃあ、貴方が働けばいいじゃないですか


 俺が言い返すと、男性は顔を真っ赤にして腕を上げた。

父親

ガキが余計な口出しするなって言ってるだろうが!

 グーで耳のあたりから殴られる。
 耳鳴りがして、一瞬足元が揺れ、意識が飛んだ。
 それでも、すぐに痛みが意識を戻す。

ティンカーベル

お父さん、やめて!


 俺の後ろでティンカーベルが泣きそうな声で叫んでいる。
 俺は彼女をかばうように手を広げた。

雄哉

余計な口出しだって言われようが、俺たちには俺たちの大事なものがあります

父親

ガキがいきがってるんじゃねえよ!


 もう一撃。
 口の中が切れたのか、血の味がする。
 足が、たたらを踏む。

雄哉

殴りたいだけ殴ればいいじゃないか。俺は、絶対に諦めない

父親

このクソガキが……!


 今度は二発。頬とお腹に受け、俺は体をくの字に折る。
 胃の中のものがでそうで、ぐっと飲み込んだ。

ティンカーベル

菊池センパイ、もういいよ。こんな人に話が通じるわけないんだ……!


 諦めたように言うティンカーベルに、俺は首を振る。
 ここで諦めたら、バッドエンドだ。そんなこと――

雄哉

もう、嫌なんだよ

父親

黙れ、このガキが

雄哉

自分の娘が死んだらって考えたことはあるのか! てめえのせいで、死を選ぶって考えたことなんかないんだろ!?

父親

……は?

雄哉

よく考えてみろよ! 今までいたはずの娘が突然いなくなるんだ。どういうことかわかるか!


 男性もティンカーベルも黙り込んでいる。
 俺は玄関先に膝をついた。
 自分の無力さに、涙がでそうだった。

雄哉

こうして知り合えたのに、もう会えなくなるんだ。俺は、嫌だ。もう嫌だ


 静まり返る玄関で、俺の床を叩く音だけが響く。

雄哉

頼む、親のあんたがどうにかしないと、ガキの俺たちは何もできないんだ

父親

……

ティンカーベル

菊池センパイ……


 不意に俺はぐいと腕を捕まれ、立ち上がらされた。
 ティンカーベルの父親が俺をじっと見ている。

父親

……部外者が言えるのはそこまでだろう。後は娘と話し合う

雄哉

……はい

ティンカーベル

ごめんなさい、菊池センパイ


 しょんぼりとうなだれるティンカーベルに、俺は首を振った。

 俺こそ、限界まで頑張ってこれか。
 また、あの苦しさを味わうのか。
 唇を噛みしめる。

父親

ゆきね

ティンカーベル

はい

父親

そんなに高校に行きたいのか

ティンカーベル

はい


 ティンカーベルは父親をまっすぐに見た。
 父親は大きな息を吐いた。

父親

学校には行ってやる。すぐには金は払えないが、なんとか話してみよう

ティンカーベル

……!!

父親

通いたいなら、違反のバイトは辞めろ。コンビニとか、ファーストフードとか……まあ、探せば色々あるだろ

ティンカーベル

はい!


 彼女は嬉しそうに頷く。
 父親は頭を掻いて、廊下を戻っていく。

父親

そこのガキ

雄哉

はい

父親

……どんな親でもな、子供が死ぬとか言われるのは腹立たしい

雄哉

……すみません

父親

それが自分のせいならなおさらだ。よく覚えておけ


 そうして、父親は廊下を曲がって消えていった。

 ティンカーベルが、おずおずと俺の頬に手を当てる。

ティンカーベル

菊池センパイ、ごめんね。痛かったでしょ?

雄哉

風呂入ったら染みると思うけど、まあ、このくらいは

ティンカーベル

……ありがとう、菊池センパイ


 不意に彼女が俺に飛びつき、俺はまたよろめいてしまう。
 暖かくて柔らかな体に、凍りついたように動けない。

 生きている。ティンカーベルは、生きている。
 それが、何より、嬉しい。

雄哉

ゆっくりお父様と話し合うといいよ

ティンカーベル

うん。結果は、明日にでも、学校で報告する

雄哉

そうしてくれると嬉しい。いい結果が出ること、祈ってる


 痛む唇で微笑むと、ティンカーベルは少しだけ心配そうな顔になった。

ティンカーベル

傷、手当していく?

雄哉

いや、大丈夫だよ。それより、ゆっくり話してきな

ティンカーベル

うん


 彼女は俺から離れると、満面の笑顔を作った。

ティンカーベル

あたし、自分の世界が嫌いだったけど……菊池センパイのおかげで好きになれるかもしれない

雄哉

……うん

ティンカーベル

本当にありがとう

雄哉

俺こそ、ありがと


 俺は彼女の頭を一度、ぽんと撫でると、玄関から出た。

 外はもう暗い。
 玄関先で手を振るティンカーベルに手を振り返し、俺はスマホを頼りに自転車を漕ぎだした。

 これならば。
 これならば、ティンカーベルを失わずに済むかもしれない。
 俺は緊張しながら、真っ暗な道を自転車で走っていく――

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