ここ数日、町が賑わってきていると聞いて山を下りてみれば、丁度、この日は七夕祭りが開かれていた。
 家々の前には短冊などで飾られた笹が揺れ、大通りの両脇には多くの商人が店を広げてあの手この手を使って客寄せをしている。中には、幼い子供が大人顔負けの迫力で呼び込みをしていたり、可愛い動物が手招きをしていたりする店もあり、眺めているだけで楽しい気分になってくる。普段から流通が盛んで賑わっている町だが、今日は祭ということもあり一段と活気が溢れていた。
 七燈は人混みにうまく溶け込んで大通りを散策していた。喧しいのは嫌いだが、祭の賑やかさは昔から好きで胸が躍ってしまう。どこからか聞こえてくる囃子の音がそれに拍車をかけているようだ。

七燈(ななひ)

祭りってのはどこもかしこも華やかでいいな。俺みたいなのが紛れ込んでいても誰も気づかねえし


 店を覗き込む振りをしてざっと周囲の様子を確認する。いますれ違った者、露店で買い物をしている者、人間相手に商売をしている者、短冊に願いをしたためている者――――等々、彼の他にも人間に扮して、あるいはこっそり混ざって祭を楽しんでいる妖はたくさんいる。皆、祭りに目がないのである。人の開くそれは人間と触れ合う機会に恵まれているから、特に人間好きの妖が姿を見せることが多い。七燈もその一人である。
 彼は飴玉を口に入れて舐めながら、店と店の間に置かれた立派な竹の葉に興味を惹かれて足を止めた。
 手前には木で組まれた机と文箱、そして短冊が置かれてあり『ご自由にどうぞ』と張り紙がされてある。どうやら、誰でも自由に短冊に願い事を書いて笹に吊していいようだ。

七燈(ななひ)

願い事か……ガキの頃は一年に一回しか会えないなんて可哀想だ、とか思って『二人が無事に会えますように』なんて書いたことがあったな……俺って超良いやつ


 昔の自分を振り返ってうんうんと頷く。いつまでも感慨に浸っていると、後ろから子供の焦れた声がした。

おじさん、書かないならどいてよ!

七燈(ななひ)

お、おじさん……!?

おっお兄ちゃん、失礼だよ……ごめんなさい、お兄ちゃん

 兄妹らしい。少女が頭を下げて訂正してくれたので七燈は少年を咎めず、二人の前からそっと立ち去った。

 そうして暫く町を散策していると、不意に路地の方から複数の人間の声が聞こえてきた。

 七燈は足を止め、耳を澄ませた。声は路地の奥から聞こえてきているようだった。

七燈(ななひ)

男が三人、女が一人ってところか……まあ、よくあることだな


 祭りに関係なく、男が女に、あるいは女が男に声をかける光景は、日常茶飯事的に世界で見られる光景だ。そこから男女の仲に発展していく場合もあれば、業務上の付き合いだけで終わるないし続いていく場合もあり、下手に第三者が声をかけるのは得策ではない。とばっちりを受けたり、馬に蹴られたりなどの天罰が下る可能性があるからだ。自分の目で見極めることが大切である。
 もっとも、関わりを持たないようにすることが被害を受けない最善策なのだが、相手が女で、困っていた場合に限り七燈は無視をすることができない性質だった。
 故に、

七燈(ななひ)

悪いが、そいつは俺の連れでね。あんたらにくれてやるわけにはいかねぇのさっ


 七燈は石をぶつけて男達の注意を引き、向かってきた三人を難なく力業でねじ伏せた。毎日、山の荒くれ者達と相撲や組み手をして遊んでいるのだ。武術の心得もなく、武器を持たない人間など楽に倒せて当然である。

七燈(ななひ)

まだやるか?


 男達は震え上がり、慌てて逃げていった。負け犬の遠吠えが聞こえるが、それは無視して助けた女を振り返る。
 女は市女笠を被り、虫の垂衣で顔を隠していた。それでも身分の高い女だということは身に纏う着物や所作、雰囲気から匂い出ていた。きっと、垂衣の奥にある面立ちも美しいに違いない。
 思わぬ形で上玉に出会った、といつもなら七燈は胸に思った。しかし、その顔を決して覗いてはいけないと頭の中で誰かが訴えている。その声が彼には不可解で、不愉快だった。

七燈(ななひ)

こんなところに女一人ってのは、些か不用心すぎるんじゃねえか?


 聞こえる声を無視して垂衣に手を忍ばせ、その姿を一目拝もうと身を屈める。
 女は抵抗しない。驚きと恐怖で思考が焼き切れているのかもしれない。
 それは断じて自分のせいではないと己に言い聞かせて彼は、ゆっくりと女の素顔を暴いた。
 蓮の花のように美しい色合いの瞳と、七燈の赤い瞳が視線を交わす。

七燈(ななひ)

――――……夕鶴

 かちり、と。
 何かの嵌る音が聞こえると同時に、七燈は彼女と己の避けられぬ運命を全て思い出した。

夕鶴(ゆうづる)

送っていただいてありがとうございます


 女は丁寧に頭を下げて礼を述べた。背を覆っていた黒髪が所作に沿ってさらりと流れ、御簾のように胸の前に降り彼女の顔を隠す。
 七燈はおもむろにその髪を払い除け、彼女の顔を――――覗き込んだ。もう一度、よく見ておきたかったのだ。

夕鶴(ゆうづる)

あ、あの、七燈さま……?


 戸惑いがちに夕鶴が目を泳がせる。
 ――――ああ、生きている。
 七燈はほっとして、泣きたくなった。

七燈(ななひ)

今日はあいつらが悪かったな。無理やり酒飲みに付き合わせて

夕鶴(ゆうづる)

いえ、とても楽しかったです。ぜひ、また遊びに行かせてください

七燈(ななひ)

……そうだな


 七燈は眩しそうに目を細めた。いまは夜の帳が静かに下りていて、明かりと言えば、頭上に輝く星々のそれしかない。夜空を、彼女を背負って駆けるのは楽しい一時だった。いましばらく別れを離れがたく思うのは、これが最後と決めているからだ。

七燈(ななひ)

夕鶴、抱きしめてもいいか?

夕鶴(ゆうづる)

えっ、あ、はい……


 腕の中に夕鶴がいる感触。
 夕鶴の体温。
 夕鶴の匂い。
 夕鶴の息遣い。
 どれもが愛しく、大切だ。

七燈(ななひ)

……好きだ、夕鶴。これまでもこれからも、惚れた女はあんただけだ

夕鶴(ゆうづる)

わ、わたしも……七燈さまのことが大好きです


 抱擁とくちづけを交わして、名残惜しいが、七燈は夕鶴と別れた。
 その足で彼は北の山の最奥に立つ大樹――――朽ちかけの世界樹のもとに向かった。

七燈(ななひ)

よお、老いぼれ。久しぶりだな


 古い友に語りかけて隣に腰かける。それから彼はいままでのことを語り聞かせた。大半が夕鶴と過ごした幸福な時間の惚気話だったが、七燈の表情は翳っていた。
 やがて、彼は長い溜息のあとに大樹に吐露する。

七燈(ななひ)

……もう疲れた


 さわさわと大樹の葉が揺れた。七燈を労ってくれているのか、それとも励まそうとしてくれているのか。ありがとう、と告げて彼は懐から短刀を取り出した。
 大樹の囁きが激しくなる。心配してくれているようだ。
 だが、もう七燈は決めたのだ。

七燈(ななひ)

俺のせいで夕鶴は何度も死ぬんだ。俺と出会ったせいで、死ぬ。それってつまり俺と出会わなければ、夕鶴は死ななかったってことだろ? これ以上、俺と関わらなければ……夕鶴は助かるんだ


 大樹が枯葉を散らす。彼にはそれが精一杯だった。精一杯に七燈を止めようとしていた。

七燈(ななひ)

……悪いな。あのとき、俺があんたに願ったからこうなってるんだよな

 七燈は大樹に額を預けた。一番最初にここで願った記憶が頭の中を流れていく。
 あのとき、息絶えた夕鶴の体を抱えて七燈はここへやって来た。そして、自らの命をもって大樹に願ったのだ。
『もう一度、夕鶴に会いたい』と。
 大樹はその願いを叶えてくれた。繰り返し、繰り返し、同じことを願う彼の願いを叶えてくれた。
 だから、いまがある。
 永遠に続くような、悪夢を見ている。

七燈(ななひ)

もう、いいんだ……俺の願いは叶った。もう一度、夕鶴に会えた。それだけでいい


 ありがとう、と彼はもう一度呟いた。大樹の囁きが止む。
 七燈はおもむろに体を起こした。大樹の前に座り直し、短刀を鞘からすっと抜く。

七燈(ななひ)

俺が生きていると、夕鶴が生きられない……それなら


 両手で短刀を持ち、切っ先を喉元に合わせる。あとは思い切り突き立てるだけだ。
 震えはない。恐れもない。この先に夕鶴の未来があるのだと思えば、何も悲しいことはない。

夕鶴(ゆうづる)

――――さま……七燈さま!


 夕鶴の声が近づいてくる。七燈の様子がおかしいと感じて追いかけてきたのだろう。勘のいい女だ。おそらく、この場所へは大樹が案内したに違いない。
 余計なことを、と七燈は大樹を睨んだ。しかし、だからといって今更彼の意志が変わることはない。
 夕鶴が息を切らして駆けてくる。七燈のために、懸命に叫んでいる。

七燈(ななひ)

心残りがないと言えば、嘘になる


 彼女を一人残していくこと、それの何と心細いことか。
 けれども、ここには佐々がいる。皆がいる。夕鶴のそばには手を差し伸べてくれる優しい人間がたくさんいる。きっと、彼らがこの先も夕鶴のことを守ってくれるだろう。
 七燈がいなくても、夕鶴は大丈夫だ。
 七燈がいなければ、夕鶴は大丈夫だ。
 運命を変える方法は、初めから一つだったのだ。

七燈(ななひ)

最初から、こうしていればよかったんだよな


 七燈は腕を伸ばした。大樹の囁きが雨となって降る。遠くでは雷鳴も聞こえる。

夕鶴(ゆうづる)

七燈さま! だめっ!

七燈(ななひ)

夕鶴――――


 七燈は力強く柄を握った。そして、一度だけ夕鶴に笑顔を見せた。

七燈(ななひ)

今度こそさよならだ


 刃が七燈の喉を貫く。
 彼の体から噴き出た鮮血は、まるで花弁のように宙を舞った。

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