夕鶴と想いを通わせてからの七燈は素早かった。もう二度と同じ過ちを繰り返さないためにできることはなんでもし、幾つもの対策を練って運命を変えるために奔走した。
夕鶴と想いを通わせてからの七燈は素早かった。もう二度と同じ過ちを繰り返さないためにできることはなんでもし、幾つもの対策を練って運命を変えるために奔走した。
最初の悲劇は、幸せに溺れていて嫉妬に気づけなかったせいで起こってしまった。
夕鶴はこの辺りを支配する豪族の娘で、待望の女児だったこともあり周囲に愛されて育った。中でも、彼女の年の離れた兄の溺愛ぶりは凄まじく、皆困り果てていたという。夕鶴自身も兄の愛に耐えかねて祭りの日、こっそりと屋敷を抜け出した。そして、七燈と出会ったのだ。
二人はすぐさま恋に落ち、それから永遠に感じられるような幸福な時間を過ごした。しかし、そのことが夕鶴の兄の耳に入り、その日のうちに七燈のもとへ討伐隊が派遣されることになった。
不意打ちを食らった七燈達は逃げ惑い、ほとんどの妖が殺害された。七燈も奮闘したが捕らえられ、夕鶴の兄の剣によって討たれようとしていた。
そこへ、
やめてっ!
夕鶴が駆けつけ、兄の凶刃から七燈を庇って命を落としてしまったのである。
そんな結末が何度か続いた。
次の悲劇は、夕鶴が優しすぎたために起こってしまった。
夕鶴が何日も山に姿を見せない日が続き、不思議に思った七燈が屋敷を訪ねてみると、彼女は兄によって監禁されていたのだ。すぐに七燈は夕鶴を救出しようとした。が、彼女は屋敷を出られないと言った。屋敷を出れば山を燃やすと兄に脅されていたのだ。
それに構わず彼女を連れ出すと、山は燃やされ、妖達は根絶やしにされた。激高した七燈が夕鶴の兄に襲いかかると、これを夕鶴が庇って落命。
またあるときは、屋敷に監禁されていた夕鶴を救出に向かうと、彼女の足の腱は切断されていたということがあった。夕鶴は足手まといになると言って七燈を追い返そうとしたが、彼はこれを拒否して彼女を担いで屋敷から脱出した。しかし、夕鶴の兄の執念は深く、ついに二人は追い詰められ、他の男のものになるくらいならと考えた彼の手によって命を奪われた。
夕鶴が自ら命を絶ってしまったこともあった。兄の愛はそれほど重く、苦しかったのだ。
そして、前回の結末では――――
七燈さま、今日もどこかへお出かけですか?
不意に背後から声をかけられて彼は我に返った。振り向けば、夕鶴のおっとりとした笑顔がある。
七燈は安堵の息を漏らし、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
とくとくと、命の鼓動が聞こえる。
夕鶴は、ここにいる。生きている。
それだけのことがこんなにも嬉しい。
朝からお熱いねえ、お二人さん! 夕鶴さま、そろそろお身体に障りはないですか? 赤飯の準備ならいつでもできてますんで、いつでもバッチコイなんで! その辺は心配しないでくださいね!
茶化す佐々の声がうるさい。いずれ、この光景が毎日続いていくのかと思うと、気が滅入る反面、嬉しくもあった。
夕方までには帰ってくる。佐々、それまで夕鶴を頼む
合点承知!
夕鶴。少し窮屈かもしれねえが、あとちょっとの辛抱だ。必ず、俺とあんたが静かに暮らしていける環境を作る。だから、もう少しだけ待っててくれ
はい。夕鶴はここで七燈さまのお帰りをお待ちしております
運命を変えるために、できる手は全て打っておくことに越したことはない。
七燈はまず、夕鶴を屋敷に帰さず、住処に置いた。いつ七燈との関係を兄に悟られ、監禁されるかわからないので、そのための対策だ。そばにいた方が彼女を守りやすい。
次に、山が燃やされることを想定して新しい住処を探しに出た。できれば、人間との関わりが薄く、神域寄りの場所を探した。そういった場所には既に神や別の妖が主として君臨している場合が多く、余所者を受けつけぬきらいがあるのだが、めげずに彼は何度も頭を下げて方々に頼み込んだ。
その甲斐があって新しい住処の目処は立った。主はおおらかな性格で、人間の女を娶ったと言うと感心し、応援までしてくれた。七燈達北の山の一家が移り住むことをとても楽しみにしてくれているようだった。
あとは、引っ越しを終えれば完了だな。これでようやく、夕鶴と、あいつらと、この先も一緒に暮らしていける
七燈は喜びを噛み締めて急いで住処に戻った。早く、このことを皆に報告したかった。
けれども――――
運命はまた繰り返す。
なんだよ、これ……
山が炎に包まれている。その様子は町からも確認でき、嫌な予感を覚えつつ彼は住処へと急いだ。
佐々!
火の手はあちこちから上がっていた。どうやら、人除けの結界を焼き払ったらしい。強引な手口は、紛れもなくあの男の仕業だろう。
佐々は庵の前に倒れていた。顔や体には殴られたような痕の他に切り傷もあり、尾には真っ直ぐに刀が突き立てられてあった。それを抜き、彼を助け起こして七燈は問いかける。
何があった?
声は震えていた。先程から嫌な予感が頭を離れない。
か、しら……
佐々はか細い声でぽつり、ぽつりと話した。
急に、人間が攻めてきて……あいつら、結界を壊して、ずかずかと……夕鶴さまを渡せば危害は加えない、なんて見え透いた嘘吐いて……夕鶴さまは、自分からあいつらと行って……結局、僕達はこの様です、よ……
ははは、と彼は力なく笑った。その体はもう大分冷たくなっていた。
俺が留守にしてたせいで……ッ……悪い。もっと早く帰ってくればよかったな
頭のせいじゃ、ないですよ……
それより、と彼が言う。
夕鶴さまを、追ってください……夕鶴さま、泣いてましたよ……女を泣かせちゃダメですよ、かし……ら――――
佐々の呼吸が途絶えた。七燈は彼を胸に抱き、一度だけ獣のように咆哮した。
――――絶対に許さねえ!
七燈は佐々の骸をその場に置き、夕鶴の後を追った。炎のせいで鼻が利かなくなっていたが、山が彼に居場所を教えてくれた。
道中、幾つもの仲間の骸を見た。いつか起こった悲劇と同じ光景に、絶望よりも憎悪の方が先立った。
お待ちください、兄上! 約束が違うではありませんかっ! わたしが大人しく言うことを聞けば、佐々ちゃん達には手を出さないと……
――――可哀想に。夕鶴、君はあいつらに誑かされているんだよ。だから、家にも戻らず、こんな山奥に監禁されて、それを幸せだと勘違いさせられて暮らしていた
ちがっ……!
でもね、もう僕が来たから大丈夫だよ。君を誑かした奴らを一掃すれば、君も正気に戻るだろう。失った時間は、僕と徐々に取り戻していけばいい。あんな奴らのことは早く忘れるに越したことはないよ。だって、あいつらは化け物で、君は美しい人間なんだから
っ……嫌!!
夕鶴が兄の手を振り払った瞬間だった、七燈が彼を蹴り飛ばしたのは。
なっ……!?
汚い手で夕鶴に触ってんじゃねーよ、変態
七燈さま……!
夕鶴は七燈の顔を見て安心したのか、顔をくしゃくしゃにして涙を零した。それまで胸に溜めていた想いも一気に溢れ出たのだろう。しゃくり上げる声からは、ごめんなさい、の言葉が聞こえた。
七燈は夕鶴の肩を抱き寄せ、涙を舐めた。塩辛かった。海の味がした。彼女の悲しみが流れ込んでくるようだった。
っ……鬼の分際で! 僕の夕鶴から離れろっ!
立ち上がった男が指示を出すと、周りをぐるりと取り囲んでいた部隊が一斉に刀と弓を七燈に向けた。
夕鶴、こちらへ来るんだ。僕と一緒に家に帰ろう。父上も母上も心配している
男が手を差し伸べる。夕鶴は肩を震わせて七燈に縋った。
家には……もう帰りません。わたしはこの方と、七燈さまと生きていくと決めたのです
……夕鶴、さっきも言ったはずだよ。君は誑かされているだけなんだ。そいつらを全員殺せば、魔法も解ける。正気に戻れば、僕と帰りたいと思うはずだよ
わたしは誑かされてなんかいません。わたしが七燈さまを誑かしたのです
思わず、七燈は笑ってしまった。全く、その通りだと頷く。
鬼を誑かすなんて、正気の沙汰とは思えねえけどな
好きになった方が、たまたま鬼だっただけです
二人は顔を見合わせて笑った。その姿が男には許せなかったらしい。
お前さえいなければ、夕鶴はっ……
彼は眼をつり上げて七燈を睨めつけた。
殺せ!!
男の号令に従い、部隊は七燈を殺すため動き出した。その数、約五十。鬼一匹を討伐するにしては、大それた人数だ。圧倒的数の利で制圧しようというのだろう。
七燈さまっ……
大丈夫だ。俺から離れるなよ
次から次へと襲いかかってくる男達を蹴散らし、夕鶴を守りながら立ち回る。今度こそ、守ると誓ったのだ。だから、少しも容赦はしない。
――――チッ。何をしている!
なかなか仕留められない皆に業を煮やした男が声を荒げ、刀を抜く。七燈は彼の言動を注視した。この男のせいで夕鶴は何度も死に至っているのである。逆を言えば、この男さえどうにかしてしまえば、夕鶴を救えるのだ。
天鷺……仮にも、夕鶴の兄貴を討つような真似は避けたいが、場合によっては……
放たれた矢が飛んでくる。それを爪で弾きながら彼は思考を巡らせた。この窮地を脱するには、何が最善かを。どうすれば、運命を繰り返さずに済むのかを。
前回、七燈が夕鶴を助けに屋敷に駆けつけたときには――――彼女は、自害したあとだった。何があったのかはわからない。ただ、死を選択せねばならないほどの何かが彼女の身に起こったのだということだけはわかった。
お前のせいで、夕鶴はっ
憎悪が七燈の眼を覆う。
っ――――七燈さま!
!?
一時でも頭の中を占めたそれは、彼の反応を僅かに鈍らせた。天鷺に集中するあまり、背後への警戒が薄くなっていたのだ。そこを突かれた。
けれども、斬られたのは七燈ではなかった。
ッ……!
夕鶴!
夕鶴が咄嗟に七燈を庇ったのだ。
誤って彼女を斬ってしまった男はたじろいだ。他の者達も息を呑んで二人を見守っている。
夕鶴! おい、しっかりしろ! なにやってんだよ、馬鹿!
だ、大丈夫ですよ、七燈さま……背中を掠ったくらいですから
強がってんじゃねーよ!!
夕鶴が受けた傷は決して浅くはなかった。右肩から左腰まで、背中に大きく刻まれている。幸い、命に別状はなさそうだが、このまま放って置くわけにはいかない。
すぐに手当てをしなければ―――― そう思って夕鶴を抱えて包囲を突破しようとした七燈の目に信じられない光景が映った。
天鷺が夕鶴を斬った男を、斬り捨てたのである。
そして、その凶刃は二人のもとにも迫っていた。
夕鶴……
うっとりと彼女の名を呟く彼の手には、血で濡れた刀が握られている。それを携えたまま彼は、おもむろに夕鶴へと近づいていく。
! 放せっ
七燈さまっ……!
天鷺の所業に呆然としていた七燈を、周りの男達が地面に押さえつけた。七燈は必死に抵抗したが、疲労が溜まった体では彼らを撥ね除ける力はなく、体力を消耗しただけだった。
夕鶴、僕は哀しいよ。誰よりも美しい君が好きだったのに
兄上……
背後に立った兄を彼女は振り返った。そして、僅かに目を瞠り、静かに七燈へと向き直った。
夕鶴の背後で赤く燃えた刃が光っている。
ごめんなさい、七燈さま……もう少し、おそばにいたかったのですけれども……
何言ってんだよっ……逃げろよ! 立てるだろ! 立って、その足で逃げろ!
夕鶴はにこりと笑うだけだった。一度目のときと、同じように。
っ、いやだ……夕鶴、頼む……!
七燈さま、大好きです。来世があるのなら、今度こそ二人で幸せになりましょうね――――
振り下ろされた真っ赤な刃が夕鶴の首を刎ねる。
地面に転がったそれを男は優しい手つきで拾い上げ、愛おしげに抱きしめた。
君は首だけになっても美しいね、夕鶴……
恍惚とした男の笑い声が炎の中へと遠ざかっていく。
なん、で
耳の奥で雨音が鳴り止まない。
ゆう、づる
そこで彼の意識は白く焼き切れた。