7月11日、月曜日。
気になったことがひとつだけある。
前の晩、いつもなら鳴りっぱなしのチャットアプリが、少しも動かなかった。
それは、今までの三日間とはまったく違うところで、少し引っ掛かりを覚える。
7月11日、月曜日。
気になったことがひとつだけある。
前の晩、いつもなら鳴りっぱなしのチャットアプリが、少しも動かなかった。
それは、今までの三日間とはまったく違うところで、少し引っ掛かりを覚える。
……相馬先輩の影響力、か?
いくら俺が学内で地味とは言え、知ってる奴は知ってるわけで。
いじめられっ子をかばって、自分もいじめられるなんて話はザラだ。
自転車に乗って学校へ行くと、案の定、仲間が慌てて目をそらす。
俺はひとりを捕まえて、校門の端へ引っ張った。
頼む、菊池! 俺の立場も考えてくれ
哀願から始まるあたり、相当だ。
世話になってるし、迷惑はかけないよ。ひとつだけ教えてほしい
何、俺に何聞こうっての
原因は相馬先輩?
そいつは大きなため息をついた。
お前、敵に回しちゃいけない人を敵に回したんだよ。あと、葛城はやめとけ。今諦めればそのうちほとぼりは冷めるから!
それだけ言うと、そいつは走って行ってしまった。
ぐるりと周囲を見渡すと、こちらを見ていた視線が見て見ぬふりで遠ざかる。
まるで、俺の周囲に見えない膜が張られて、動物園の猿みたいに一挙一動を見て笑われてるような感じだ。
胸糞悪いな
こんな膜の中でずっとティンカーベルは過ごしてきたのか、と思ったときだった。
……菊池センパイ?
今までとは違うパターンだ。
ティンカーベルのほうから俺を見つけて、声をかけてきた。
ん、おはよう
もう、あたしに関わったらダメだよ
それだけ言って、彼女は振り返らずすたすたと歩き出す。
俺は慌てて追いかけ、彼女の横に並んだ。
なんで
なんでって……菊池センパイも何言われるかわかんないよ
別に、気にしないし
……
学校、好き?
……授業は好き
じゃあ、いいじゃん
彼女はぽかんとした顔をした後、くすくすと笑い出した。
菊池センパイ、音楽好き?
好きだけど
休み時間は音楽聞くといいよ。音楽ってね、自由になれるの
ティンカーベルは指にイヤフォンコードを絡ませて楽しそうに言う。
お勧めの音楽は?
放課後、暇なら屋上来て。教えてあげる
彼女のほうからの誘いに乗らないはずがない。
わかった。楽しみにしてる
ティンカーベルはひとつ頷くと、小走りで校舎のほうへと向かっていく。
ふと見ると、また周囲が俺たちを見て見ぬふりをしていた。
……大丈夫、キミの世界の、キミの味方だ
俺は心のなかで呟いた。
休み時間にゲームにも誘われない。
飯を食うのも一人。
誰もが皆、よそよそしい。
昼休み、俺が座席から立ち上がると、皆が一斉にこちらを見て、目をそむけた。
さて、と
前回、このタイミングでティンカーベルの噂を聞いた。
相馬先輩の存在を知ったのもこのときだった。
そのアドバンテージをどう活かそうか。
そのときだった。
菊池くん、いますか
凛とした佇まいの女生徒が教室の入り口から俺の名を呼んでいた。
見たことがある。生徒会長をやってる、三年の先輩だ。
俺ですか
みんながざわざわとこちらを見ている。
チャットアプリを起動して何か打ち込んでいる奴もいる。
ちょっと、話、いいかな
生徒会長はそう言って微笑んだ。
俺たちは人目を避けるために屋上にいた。
生徒会長の名は工藤しのぶ、と言った。
智彦の彼女なの
一瞬、誰ですかそれ、と言いかけて止まる。
智彦というは確か相馬先輩のことだ。
ドラマにでも出てきそうなカップルですね
ふふ、ありがとう。ちょっとね、見ていられなくて声かけちゃった
工藤先輩はそう言って控えめに微笑んだ。
少し言葉に迷ってから、ゆっくりと話しだす。
だいたい予想はついてるの。智彦の前で葛城さんの味方をしたんでしょう?
……はい
あの二人が義兄妹って話は知ってるわよね?
俺が頷くと、工藤先輩は苦笑いを浮かべた。
葛城さんのお父様が、ひどい人らしくってね……智彦も、智彦のお母様も随分と暴力を受けたらしいの
……
離婚で縁を切ったと思ったら、後輩として入学してきたから、智彦としては許せなかったんだと思う
それで、腹いせにいじめてるんですか
智彦も随分、子供だと思うけれどね
工藤先輩はため息をついた。
……でも、智彦も、犠牲者の一人だわ
和解は、無理ですか
俺の言葉に工藤先輩は首を振った。
無理だと思うわ
わかりました
あっさりとうなずいた俺に、工藤先輩は逆に驚いたようだった。
俺の顔をじっと見る。
わかった上で、まだ葛城さんに関わるの?
じゃあ、工藤先輩にお聞きしてもいいですか
俺はまっすぐに工藤先輩を見据えた。
相馬先輩、葛城を退学させるために他の女子と繁華街に遊びに行ってました。それでも彼女として居続けるんですか?
工藤先輩は声を失ったように黙りこんだ。
俺はかすかに笑う。
そういうことじゃないですか。気持ちは理屈じゃ動きませんよ
……君は、強いのね
工藤先輩はどこか俺を讃えるように言った。
俺は首を振る。
俺は強くなんてない。
強くないから、この3日を繰り返している。
俺は現実を直視するのが、怖いだけです
工藤先輩は首を傾げた。
わからなくていい。俺が心に刻んでおけばいいだけだ。
遠くチャイムの音が響く。
行きましょうか
工藤先輩に促されて、俺たちは屋上を出た。
そして、気づく。
歴史がこんな早い段階から変わっていることに。
気を引き締めないとな
工藤先輩というカードも、俺がこんな状況に陥るというカードも、前の3日ではなかったこと。
それならばこの三日間、何が起こるか、少しずつ変わっていくのかもしれない。
それがティンカーベルにとってよい変化であれば、構わないが。
俺は未だUKロックがDLされてないスマホを握りしめた。
放課後の屋上での会話は、前回の3日と大差なかった。
ティンカーベルがお勧めの曲をレポート用紙いっぱいに書いてきたのには驚いたが、純粋に彼女の好意が嬉しかった。
お、この曲知ってる
ホント? 菊池センパイ、趣味いいね
そんな他愛もない会話も、やっぱり嬉しい。
ティンカーベルが笑顔でいるのも、嬉しい。
明日も、いる?
別れ際尋ねると、彼女はなんで、とは聞かなかった。
いるよ。聞いた曲の感想、聞かせてね
だから、俺も彼女が死にたそうな顔をしてるなんて言わなかった。
お互い、笑顔で手を振って別れて、ティンカーベルはまっすぐ家に帰っていく。
少しずつ、何かが変わっていく。
イヤフォンを耳に入れ、何気なくグラウンドを見る。
今回は、工藤先輩が相馬先輩のいるであろう、体育館へ向かっているのが見えた。
少しだけ、嫌な予感がした。
夜、DLとYoutubeでの視聴を繰り返してると、静かだったチャットアプリが鳴った。
見ると、校門で捕まえた奴からだった。
表立って言えないけど、応援してるわ
葛城、意外とかわいいよな。頑張れ
俺は声を立てて笑う。
俺の世界は、まだまだ捨てたもんじゃない。